奈良時代【高校:日本史】 710年 - 784年
絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。
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- 奈良時代(ならじだい)
710年 - 784年
奈良に都(平城京)があった時代。
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- 710年
平城京に遷都したのは710年。
覚え方は「なんと(710)美しい平城京」です。
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- 元明天皇(げんめいてんのう)
661年 - 721年
第43代天皇(在位707年 - 715年)。女帝。
私が天皇の時に奈良に都を移して平城京としました。
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- 平城京(へいじょうきょう)
唐の都「長安」にならってつくられた奈良時代の都。
東西約4.3km、南北約4.8kmの規模を持つ。
中央には南北に走る大路である朱雀大路があり、東の左京と西の右京に分けられていた。
宮(宮殿)は中央北部に置かれ、2つの朝堂院を東西に併設していた。
造営に際しては大宝令の法令に依拠した。
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- 東が左京で西が右京(ひがしがさきょうでにしがうきょう)
平城京は朱雀大路を挟んで東が左京で西が右京です。
唐では「君主は南を向いて政治を執り行う」ものとされていたため、唐の都である長安にならって造られた平城京も「天皇は南を向いて政治を執り行う」ということになり、天皇から見て左が東、右が西になるからだそうです。
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- 長安(ちょうあん)
唐の都。
平城京は長安をモデルとして造られた。
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- 平城京は長安にならって造られる
平城京は唐の都である長安をモデルとして造られた。
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- 遣唐使(けんとうし)
8世紀になると新羅と日本との関係が悪化して、遣唐使の航路が朝鮮半島沿いの航路から、東シナ海を横断する航路へと変わったために、船がしばしば遭難した。
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- 大領(だいりょう)
郡司の四等官の一つで、長官のこと。
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- 検田使(けんでんし)
律令制の下、検田のために派遣された使者。
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- 木簡(もっかん)
文字が記された木の札。
平城宮など、古代の役所のあとから数多く出土している。
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- 南都六宗(なんとろくしゅう)
奈良時代には三輪・成実・倶舎・法相・華厳・律の南都六宗と称される仏教宗派が成立していった。
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- 三論宗(さんろんしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 道慈(どうじ)
?年 - 744年
三論宗の僧。
大安寺に住した。
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- 成実宗(じょうじつしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 倶舎宗(くしゃしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 法相宗(ほっそうしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 義淵(ぎえん)
?年 - 728年
法相宗の僧。
弟子に玄昉、行基、良弁らがいる。
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- 華厳宗(けごんしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 良弁(ろうべん)
689年 - 774年
華厳宗の僧。
東大寺の初代別当。
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- 律宗(りっしゅう)
南都六宗のひとつ。
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- 国学(こくがく)
律令制の下、官人の養成機関として地方に国学が置かれた。
郡司の子弟が多く入学し、儒教の経典などを学んだ。
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- 国学が置かれたのは地方
国学が置かれたのは地方。
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- 大学(だいがく)
律令制の下、官人の養成機関として中央に大学が置かれた。
貴族の子弟が多く入学し、儒教の経典などを学んだ。
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- 大学が置かれたのは中央
大学が置かれたのは中央。
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- 戸籍(こせき)
戸籍や計会帳などの公文書が地方から中央政府に提出された。
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- 稗田阿礼(ひえだのあれ)
生没年不詳。
稗田阿礼が誦み習った内容を太安万侶が筆録したものが『古事記』。
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- 太安万侶(おおのやすまろ)
? - 723年
『古事記』の筆録にあたった人。
1979年に奈良市の郊外で発見された火葬墓から太安万侶の墓誌が見つかった。
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- 古事記(こじき)
712年に作られた現存最古の歴史書。
天皇の系譜や神話・伝説とともに多くの歌謡が載せられている。
稗田阿礼が誦み習った内容を太安万侶が筆録して作られた。
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- 風土記(ふどき)
奈良時代に編纂された、諸国の地理や産物などをまとめた書物。
各地域の地名の由来が記されている。
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- 出雲国風土記(いずものくにふどき)
出雲国の風土記。
『風土記』には他にも『肥前国風土記』や『豊後国風土記』などがあるが、『出雲国風土記』が現存の『風土記』のうち最も完本に近い。
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- 『日本書紀』(にほんしょき)
720年に作られた最古の勅撰史書。勅撰(ちょくせん)っていうのは「天皇の命令で作られたよ」っていう意味。古事記は勅撰ではないけど、日本書紀は勅撰で作られた一番古い歴史書。
神代から持統天皇の時代までの出来事が書かれている。
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- 多賀城(たがじょう)
724年
陸奥国に設置され、国府と鎮守府が置かれた。
陸奥国の政治や蝦夷対策の拠点となった。
802年に鎮守府が胆沢城に移ってからは国府のみとなる。
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- 鎮守府(ちんじゅふ)
蝦夷征伐を目的に設置された役所。
多賀城に置かれた。
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- 蝦夷(えみし)
古代、日本の東北・北海道に住み、朝廷の支配に抵抗し服属しなかった人々の呼称。
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- 元興寺(がんごうじ)
710年に都が藤原京から平城京に遷された際、飛鳥にあった法興寺は平城京内に移って元興寺になった。
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- 大安寺(だいあんじ)
710年に都が藤原京から平城京に遷された際、藤原京にあった大官大寺は平城京内に移って大安寺になった。
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- 隼人(はやと)
7世紀の後半から8世紀の初頭、律令制による国家の仕組みが整備されつつあった時代に、南九州の薩摩半島や大隅半島など政府の支配下にまだ属していない地域に居住していた人々。
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- 守(かみ)
国司の長官職のこと。
隼人と政府の間には武力衝突もあり、720年には大隅国の守が隼人に殺される事件も起きた。
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- 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうほかいこんけいかく)
722年
百万町歩の開墾計画を立て、田地の増加をはかった。
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- 三世一身法(さんぜいっしんのほう)
723年
開墾を奨励するための法。
既存の灌漑用水を利用して開墾した場合は本人一代限りその占有を許し、新たに灌漑用水を自力で引いて開墾した場合は3世代の間その墾田の占有を許した。
ただし、最終的に公有化されるためあまり効果が無く、後に墾田永年私財法が出された。
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- 既存の灌漑施設を利用して開墾した場合(きぞんのかんがいしせつをりようしてかいこんしたばあい)
三世一身法では、既存の灌漑施設を利用して開墾した場合は開墾者本人一代に限って墾田の所有が認められた。
正誤問題でひっかけ問題として出る場合があるので気をつけること。
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- 聖武天皇(しょうむてんのう)
701年 - 756年
第45代天皇(在位:724年 - 749年)。
国分寺建立の詔を出して全国に国分寺・国分尼寺などを建立させたり、大仏造立の詔を出して東大寺に大仏を作らせたりしました。
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- 光明皇后(こうみょうこうごう)
701年 - 760年
聖武天皇の皇后。
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- 官道(かんどう)
中央と地方機関を結ぶための経路として国家によって管理・整備された道路のこと。
各国の政務・儀礼を行う施設が集まった国府や、聖武天皇の詔によって建立された国分寺・国分尼寺なども、官道近くに位置する場合が多い。
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- 天平文化(てんぴょうぶんか)
聖武天皇が在位していた8世紀前半の天平期を中心に栄えた文化。遣唐使、留学生、僧などが中国から伝えた文化の影響を受けた、貴族を中心とした仏教文化。
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- 乾漆像(かんしつぞう)
漆で固めてつくった像のこと。
製法によって脱乾漆(脱活乾漆)と木心乾漆の2種類がある。
奈良時代の天平文化で乾漆像の技法が発達した。
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- 新嘗祭(にいなめさい)
宮中での秋の収穫祭。
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- 神仏習合(しんぶつしゅうごう)
奈良時代から見られるようになった、神社に神宮寺を建立したり、神前で読経をしたり、寺院の境内に鎮守神を祀ったりするような神祇信仰と仏教信仰が融合した様相のこと。
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- 神宮寺(じんぐうじ)
神仏習合の中で、神社の境内や神社に隣接して建てられたお寺のこと。
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- 渤海(ぼっかい)
727年に渤海という国の使節が来日し、新羅との対抗関係から友好的に通交するようになった。
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- 長屋王の変(ながやおうのへん)
729年
皇族勢力を代表して権勢をふるった長屋王が謀反の疑いをもたれ、自殺に追い込まれた政変。
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- 鑑真(がんじん)
688年 - 763年
日本から「偉いお坊さんに日本に来てほしい」って言われ、乗っていた船が遭難し、失明しながらも、753年に日本にたどり着いて戒律を伝えた中国(唐)の僧。
日本に来てからは、日本における律宗(仏教の一宗派)の開祖となり、唐招提寺を建立したりしました。
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- 戒律(かいりつ)
僧尼が守らなければならない規律のこと。
中国から来日した鑑真がもたらした戒律によって、僧尼に関する制度の厳正化が図られた。
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- 唐招提寺(とうしょうだいじ)
鑑真が平城京内に建立した寺院。
鑑真の乾漆像がおかれている。
参考:唐招提寺
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- 天然痘の流行(てんねんとうのりゅうこう)
奈良時代には天然痘が流行し、朝廷の公卿たちのなかにも病死する者が多く見られた。
橘諸兄が政権を握るほど出世できたのはライバルが天然痘で亡くなったからである。
東大寺に奈良の大仏が建てられた理由の一つにも、天然痘の流行が背景にあったと考えられている。
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- 橘諸兄(たちばなのもろえ)
684年 - 757年
皇族。公卿。
唐から帰国した吉備真備・玄昉らとともに政権を握った。
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- 吉備真備(きびのまきび)
695年 - 775年
学者。公卿。
717年に遣唐使として阿倍仲麻呂、玄昉らとともに唐へ行き、735年に多くの典籍を携えて日本に帰りました。帰国後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て昇進し、740年には私と玄昉を除こうと藤原広嗣の乱が起こりますが鎮圧されました。
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- 玄昉(げんぼう)
? - 746年
僧。
712年に遣唐使に学問僧として随行し、唐で法相を学びました。735年に帰国し、聖武天皇の下、吉備真備とともに活躍し、そこそこ出世しました。740年には藤原広嗣が吉備真備と私を排除しようと兵を起こすが鎮圧されました(藤原広嗣の乱)。
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- 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
698年? - 770年?
留学生として唐に派遣されたが、帰国途上で風波にあって帰れず、唐の政府に仕えた。
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- 藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
740年
藤原広嗣が吉備真備らの排除を求めて九州の大宰府で大規模な反乱を起こした。
鎮圧された。
この乱の後、大宰府は一旦廃止されたが、745年に復活された。
年号の覚え方は「740(なじれ)!吉備らを!藤原広嗣の乱!」です。
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- 藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
? - 740年
貴族。
藤原広嗣の乱を起こした人。
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- 恭仁京(くにきょう)
740年 - 744年
藤原広嗣の乱後、聖武天皇が平城京から恭仁京に遷都した。
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- 難波京(なにわきょう)
744年 - 744年
聖武天皇が恭仁京から難波京に遷都した。
難波宮ともいう。
この後に紫香楽宮に遷都。
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- 紫香楽宮(しがらきのみや)
745年 - 745年
天平14年に聖武天皇が建て、天平17年(745年)の1月から5月の間、都だった。
この後に平城京に遷都。
滋賀県甲賀市に所在する宮町遺跡は紫香楽宮跡に比定されており、宮殿や朝堂、数千点に及ぶ木簡が出土している。
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- 聖武天皇の遷都の順番
聖武天皇は平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮の順に遷都を行った後、平城京に遷都した。
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- 興福寺阿修羅像(こうふくじあしゅらぞう)
天平年間に制作された美術作品。
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- 東大寺(とうだいじ)
聖武天皇が国分寺の中心をなす「総国分寺」として建立した。
聖武天皇が「大仏作ろうぜ」(大仏造立の詔)って言ったのが743年。745年から現在の場所で大仏を作り始めた。752年に大仏の目を描いた(大仏開眼会)。この大仏が有名な奈良の大仏。
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- 東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)
東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の仏堂。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指定されている。堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作である。
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- 東大寺法華堂不空羂索観音像(とうだいじほっけどうふくうけんじゃくかんのんぞう)
脱乾漆像。
東大寺法華堂の本尊。
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- 行基(ぎょうき)
668年 - 749年2月23日
奈良時代の日本の僧。
灌漑施設を整備するなど、さまざまな社会事業を行いながら、仏教の教えを広めた。
当初はその活動が危険視されて、国家の弾圧を受けた時期もあったが、後に政府からの要請で東大寺の大仏造営に協力して大僧正に任じられた。
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- 僧尼令(そうにりょう)
僧尼統制の刑罰や規制が主な内容。
この時代の仏教は、政府から厳しい統制を受けた。
当初、行基も取り締まりの対象となった。
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- 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
743年
開墾した土地の私有を永遠に認めるよっていう制度。分かりやすく言えば、自分で耕した土地は自分のものにしていいよ、っていう制度。朝廷はこれで税収が増えるかと企んだんだけど、公地公民の制度が崩れて大寺院や貴族、地方豪族が競って土地の開墾を行うようになった。
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- 孝謙天皇(こうけんてんのう)
718年 - 770年
第46代天皇(在位:749年 - 758年)。女帝。
聖武天皇の娘。
752年に東大寺で大仏開眼供養が、聖武太上天皇、光明皇太后も参列して盛大に行われた。
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- 光明皇太后のために紫微中台が設置される(こうみょうこうたいごうのためにしびちゅうだいがせっちされる)
749年
光明皇太后のために紫微中台が設置された。
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- 紫微中台(しびちゅうだい)
749年
皇后の日常生活をささえるために設置された令外官(令に規定されていない官)。
749年に光明皇太后のために設置された。
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- 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
706年 - 764年
公卿。
紫微中台の長官をつとめた。
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- 漢詩(かんし)
漢字で書く詩。
貴族・官人の身につけるべき教養とされた。
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- 懐風藻(かいふうそう)
751年
日本最古の漢詩集。
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- 懐風藻には長屋王の漢詩も収められている
懐風藻には長屋王の漢詩も収められている。
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- 開眼供養(かいげんくよう)
752年
東大寺で大仏の開眼供養の儀式が行われた。
年号の覚え方は「な(7)んかコツ(52)ある?開眼供養で魂挿入」です。
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- 本朝三戒壇(ほんちょうさんかいだん)
僧侶に戒律を授ける儀式を行う場所を戒壇と言い、754年に築かれた東大寺の戒壇と761年に設置された筑紫観世音寺の戒壇、下野薬師寺の戒壇を合わせて本朝三戒壇という。
参考
戒壇堂|参拝のご案内|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
観世音寺・戒壇院 | 日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~
下野薬師寺跡|観光情報検索 | とちぎ旅ネット
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- 正倉院(しょうそういん)
756年に光明皇太后が夫である聖武天皇の七七忌に際して聖武天皇が使用していた物約650点や60種の薬物を東大寺の大仏に奉献したのが始まりで、これらの献納品は正倉院に納められた。
正倉院は校倉造(あぜくらづくり)の宝物庫。
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- 正倉院宝庫(しょうそういんほうこ)
東大寺宝庫群で現存する唯一の正倉。
校倉造(あぜくらづくり)で造られている。
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- 正倉院宝庫は校倉造(しょうそういんほうこはあぜくらづくり)
正倉院宝庫は、三角材を井桁に積み上げた校倉造。
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- 養老律令(ようろうりつりょう)
757年に施行された基本法令。大宝律令に続く律令。
内容は大宝律令と大差はない。
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- 藤原仲麻呂は藤原不比等の孫(ふじわらのなかまろはふじわらのふひとのまご)
藤原仲麻呂は『養老律令』を編纂した藤原不比等の孫。
『養老律令』が施行されたのは藤原仲麻呂が権力を握った時代。
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- 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
721年? - 757年?
橘諸兄の子。
藤原仲麻呂の台頭で勢力が後退したため、757年に仲麻呂の打倒を企てたが、失敗して滅ぼされた。
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- 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
733年 - 765年
第47代天皇(在位:758年 - 764年)。
藤原仲麻呂が後ろだてした。
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- 藤原仲麻呂が恵美押勝の名を賜る(ふじわらのなかまろがえみのおしかつのなをたまわる)
藤原仲麻呂が淳仁天皇に恵美押勝の名を賜った。
恵美押勝は淳仁天皇を後ろだてした。
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- 石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)
729年 - 781年
貴族。
藤原仲麻呂政権の頃から文人として淡海三船とともに有名だった。
芸亭を開いたことで知られる。
仲麻呂政権に反発して謀反を企図したことが発覚したりもしたが、最終的には大納言まで上り詰めた。
物部守屋で有名な物部氏は後に石上氏を名乗るようになったが、石上宅嗣は石上氏の一人。
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- 芸亭(うんてい)
石上宅嗣は自邸を寺院として阿閦寺と名付け、中に芸亭という多くの書物を集めた施設を作り、広く公開していた。
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- 淡海三船(おうみのみふね)
722年 - 785年
皇族・貴族・文人。
壬申の乱で近江朝延方を率いた大友皇子の曾孫。
唐より来日した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記した。
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- 万葉集(まんようしゅう)
759年に編纂された約4500首の歌をおさめた日本最古の和歌集。
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- 大伴旅人(おおとものたびと)
665年 - 731年
大伴家持の父。
万葉集に多くの歌を残した。
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- 大伴家持(おおとものやかもち)
665年 - 731年
大伴旅人の子。
万葉集に多くの歌を残した。
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- 山上憶良(やまのうえのおくら)
660年 - 733年?
万葉歌人。
『貧窮問答歌』で知られ、万葉集に載っている。
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- 貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)
山上憶良が歌った長歌。
万葉集に載っている。
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- 道鏡(どうきょう)
? - 772年
僧侶。
病気になった孝謙上皇の病気を治療して、上皇に寵愛されるようになった。
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- 藤原仲麻呂が孝謙上皇を諌める(ふじわらのなかまろがこうけんじょうこうをいさめる)
藤原仲麻呂(恵美押勝)が淳仁天皇を通じて孝謙上皇に、道鏡を寵愛することを諌めた。
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- 孝謙上皇(こうけんじょうこう)
718年 - 770年
道鏡を寵愛することを諌められたことに怒り、淳仁天皇・藤原仲麻呂と対立するようになった。
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- 恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)
764年
孝謙上皇、道鏡らに対して藤原仲麻呂(恵美押勝)が起こした乱。
「藤原仲麻呂の乱」ともいう。
鎮圧された。
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- 吉備真備が恵美押勝の乱の鎮圧に活躍(きびのまきびがえみのおしかつのらんのちんあつにかつやく)
一次冷遇された吉備真備が、恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の鎮圧に活躍。これをきっかけに右大臣に昇進する。
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- 称徳天皇(しょうとくてんのう)
718年 - 770年
第48代天皇(在位:764年 - 770年)。女帝。
藤原仲麻呂の乱後、淳仁天皇を廃位させ、孝謙上皇がもう一度天皇になり、称徳天皇と称した。
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- 薬師寺吉祥天像(やくしじきちじょうてんぞう)
奈良時代後期の作。
麻布に描かれた仏教絵画。
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- 百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)
764年
百万基の木製の小塔の中に収められた陀羅尼経のこと。
称徳天皇が恵美押勝の乱後に作らせた。
世界最古の現存印刷物。
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- 西大寺(さいだいじ)
孝謙上皇の発願によって造営が始まり、称徳天皇となった後に伽藍が開かれた寺。
中世には叡尊が出て現在では大茶盛でも知られる。
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- 道鏡が失脚する(どうきょうがしっきゃくする)
称徳の寵愛を受けた道鏡は権勢をふるい、称徳は彼への譲位を模索した。
しかし藤原百川を中心とする貴族の反発や称徳の死によって失脚し、下野へ追放された。
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- 下野国(しもつけのくに)
道鏡が左遷された国。
現在の栃木県。
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- 藤原百川(ふじわらのももかわ)
732年 - 779年
公卿。
道鏡を追放し光仁天皇を擁立した。
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- 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)
?年 - ?年
蝦夷の豪族。
780年に伊治城で反乱を起こした。
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- 伊治呰麻呂は蝦夷の豪族(これはりのあざまろはえみしのごうぞく)
伊治呰麻呂は古代、日本の東北・北海道に住み、朝廷の支配に抵抗し服属しなかった蝦夷出身の豪族であり、反乱前は政府に帰順していた。
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- 伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん)
780年
蝦夷の豪族である伊治呰麻呂が伊治城で起こした反乱。
反乱は多賀城を焼き討ちするまでに拡大した。
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- 租(そ)
田地に課された「お米を納めてね」っていう税。
諸国の正倉に蓄えられた。
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- 庸(よう)
「京で労働するか、もしくは労働力の代わりになんかくれ」っていう制度。
庸は「成年男子」に対して課されたもので、女子は負担しなかった。
庸は都に運ばれて中央政府の指示でさまざまな経費として用いられた。
律令制下において京・畿内では庸の負担が免除されていた。
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- 調(ちょう)
諸国の産物を朝廷に納めさせる制度。
調は「成年男子」に対して課されたもので、女子は負担しなかった。
調は都に運ばれて中央政府の指示でさまざまな経費として用いられた。
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- 課丁(かちょう)
調・庸などの課役を負担した成人男性のこと。
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- 中男(ちゅうなん)
課丁のうち17~20歳までの男子。
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- 雑徭(ぞうよう)
国司が農民を使役できる労役。
毎年60日を限度として土木工事の義務を負った。
後の桓武天皇のときに農民の負担軽減を狙って30日を限度とするよう制度を改めた。
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- 運脚(うんきゃく)
調や庸などの貢納物を都に運ぶ人のこと。
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- 正丁(せいてい)
律令制において、21歳以上60歳以下の健康な男子のこと。
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- 衛士(えじ)
律令制において、交替で上京し宮門の警備などについた兵士のこと。
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- 出挙(すいこ)
豪族が農民たちの生活維持のため稲を利息付きで貸し付け、収穫時に利息とともに回収する行為のこと。
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- 公出挙(くすいこ)
国家が農民に対して春に稲を貸し付け、秋の収穫時に高い利息とともに徴収する制度。
実質的には税となっていき、諸国の財源となった。
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- 意見封事(いけんふうじ)
奈良・平安時代に臣下が密封して天皇に奉った意見書のこと。
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- 吉祥天像(きちじょうてんぞう)
8世紀の絵画は希少であるが、薬師寺の「吉祥天像」が有名であり、唐の影響を強く受けた作品。