明治時代【高校:日本史】 1868年 - 1912年
絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。
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- 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)
1868年
3月、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発した。
この令の結果、廃仏毀釈を招くことになった。
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- 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
神仏分離令が出された後、寺院や仏像が破壊され、多くの文化財が海外に流出するようになった仏教排斥運動。
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- 五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)
1868年
3月に公布された国家の基本政策を示す五箇条。
- 広く会議を開いて、全部話し合いで決めようぜ。
- 上の立場の者も下の立場の者も心ひとつにして盛んに国家を治めよう。
- 公家・武家・庶民に至るまで志を遂げ、なんかいい感じにしてこう。
- 古い悪習を捨て、国際法に基づこう。
- 知識を世界に求めて、大いに天皇が国を治める基礎を盛んにしよう。
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- 五榜の掲示(ごぼうのけいじ)
1868年
五箇条の誓文の公布の翌日に掲げられた五種の高札。
キリスト教の禁止など、幕府の民衆政策をひきつぐ内容が書かれていた。
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- 五榜の掲示でキリスト教を禁止する(ごぼうのけいじでキリストきょうをきんしする)
五榜の掲示でキリスト教は禁止された。
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- 太政官札(だじょうかんさつ)
1868年
5月に発行された、明治政府の最初の紙幣。不換紙幣。
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- 不換紙幣(ふかんしへい)
正貨との交換が約束されない紙幣。
正貨とは、紙幣で表示する価格と同じ値打ちの「金貨」や「銀貨」などのこと。
より正確に言えは、金本位制においては正貨は「金貨」、銀本位制においては正貨は「銀貨」となる。
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- 政体書(せいたいしょ)
1868年
6月11日に発布された明治政府の組織法。
「一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス、則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム…」みたいに書かれている。
- 太政官への権力集中
- 三権分立
- 官吏公選
などを規定し、政府の組織が整えられた。
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- 太政官制(だじょうかんせい)
1868年 - 1885年
政体書によって定められた太政官を最高官庁とする日本の政府機構。
1885年に太政官制が廃止され、内閣制に移行した。
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- 明治時代(めいじじだい)
1868年 - 1912年
1868年10月から元号が「明治」となった。
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- 牛鍋(ぎゅうなべ)
1868年くらい
明治初期に牛鍋が流行した。
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- 生野銀山を江戸幕府から明治政府が引き継ぐ(いくのぎんざんをえどばくふからめいじせいふがひきつぐ)
生野銀山を江戸幕府から明治政府が引き継いだ。
参考
生野銀山【歴史・概要】。
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- 佐渡金山(さどきんざん)
江戸幕府が1603年に開発した金山。
明治政府が引き継いだ。
のちに三菱に払い下げられる。
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- 東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)
江戸幕府の江戸関口大砲製作所を明治政府が引き継いだ官営兵器製造工場。
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- 長崎造船所(ながさきぞうせんじょ)
江戸幕府の長崎製鉄所を明治政府が引き継いだ官営の造船所。
1887年に三菱に払い下げられて三菱長崎造船所となり、日清戦争後の造船奨励政策を背景に、欧州航路や太平洋航路に就航する大型船を建造した。その後、日本の造船技術は日露戦争後に世界水準に達した。
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- 大村益次郎(おおむらますじろう)
1824年 - 1869年
医師。西洋学者。兵学者。維新の十傑の一人。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。1869年に暗殺された。
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- 版籍奉還(はんせきほうかん)
1869年
7月に明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。
年号の覚え方は「いや(18)、無(6)理く(9)りにでも版籍奉還」です。
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- 知藩事(ちはんじ)
1869年
版籍奉還により領地・領民を朝廷に返還した旧藩主274名が任命されて成立した地方行政官。
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- 北海道(ほっかいどう)
1869年
8月に、北海道は従来の五畿七道に加え、8つめの道として新たに設置された。
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- 五畿七道(ごきしちどう)
律令制で定められた地方行政区画。
「山城」「大和」「河内」「和泉」「摂津」の五畿と、「東海道」「東山道」「北陸道」「山陰道」「山陽道」「南海道」「西海道」の七道。
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- 石狩国(いしかりのくに)
1869年
8月に蝦夷地を北海道と改めた際に置かれた11か国のひとつ。
現在の北海道大学がある札幌市北区もここに含まれる。
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- 民部省札(みんぶしょうさつ)
1869年
明治政府が10月から発行した不換紙幣。小額紙幣。
太政官札は桁の大きいものが多く不便であったために発行された。
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- 世界国尽(せかいくにづくし)
1869年刊行。
福沢諭吉が寺子屋の教育に着目して著した子供用地理書。
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- 福沢諭吉(ふくざわゆきち)
1835年 - 1901年
武士。蘭学者。著述家。啓蒙思想家。教育者。
慶応義塾の創設者として有名。著書に『世界国尽』『西洋事情』『学問のすゝめ』など。
名前の沢は澤と書いて福澤諭吉と表記される場合もある。
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- 東京・横浜間に電信回線を敷設(とうきょう・よこはまかんにでんしんかいせんをふせつ)
1869年
電信線がはじめて東京・横浜間に敷設された。
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- 工部省(こうぶしょう)
1870年設置。
明治政府のもとで殖産興業を担当した。
鉱工業部門と交通部門を管掌し、産業の近代化に貢献した。
設置年の覚え方は「いや、なれ(1870)よ!工部とともに強い国!」です。
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- 大教宣布の詔(たいきょうせんぷのみことのり)
1870年
明治天皇の名により出された詔。神道を国教と定めて日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した。
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- 人力車(じんりきしゃ)
人力車は人力で人を運搬する車のことで、1870年から営業が始まったが、その普及にともなって従来の駕籠が急速に衰退した
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- 横浜毎日新聞(よこはままいにちしんぶん)
1871年
横浜で創刊された日本最初の日本語による日刊新聞。
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- 大阪に造幣局を創設(おおさかにぞうへいきょくをそうせつ)
1871年
4月に大阪に造幣局が創業された。
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- 横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)
1871年
江戸幕府が設立した横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、1871年に横須賀造船所に改称した。
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- 新貨条例(しんかじょうれい)
1871年
6月に明治政府が定めた条例。
金本位制を建前とし、円銭厘を貨幣単位とする十進法を採用し、計数貨幣の新硬貨を発行した。
また、当時「太政官札」「民部省札」などの不換紙幣が流通していたので、1872年に今までの不換紙幣の回収を進めるための新たな政府紙幣を発行し、紙幣の統一を進めた。だが、新たに発行したこの紙幣も不換紙幣であった。
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- 前島密(まえじまひそか)
1835年 - 1919年
1871年に前島密の建議により飛脚にかわる官営の郵便制度が発足し、郵便切手が発行された。
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- 廃藩置県(はいはんちけん)
1871年
8月に明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。
諸藩の軍隊も解体した。
中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政にあたることになった。
これにより、天皇を中心とする中央政府が全国の土地と国民を直接治める、中央集権国家の基礎が確立した。
また、これにより知藩事は全員失職し、東京へ居住させられて華族となり、その役目を終えた。
廃藩置県後も、政府は華族に家禄を支給した。
明治政府は、旧幕府や藩の債務のうち約半分を引き継いだものの、残りの半分は廃藩置県の際に不履行とした。
年号の覚え方は「文句は言わない(1871)、言わせない。廃藩置県を断行す」です。
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- 薩摩藩・長州藩・土佐藩の軍事力を背景に廃藩置県を断行する(さつまはん・ちょうしゅうはん・とさはんのぐんじりょくをはいけいにはいはんちけんをだんこうする)
1871年
薩摩・長州・土佐の3藩の軍事力を背景に廃藩置県を断行した。
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- 左院(さいん)
1871年設置。
太政官制の下で設けられた立法の諮問機関。
1875年に、元老院にとって代わられた。
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- 大区小区制(だいくしょうくせい)
1871年
廃藩置県後に行われた画一的な行政区画。
小区の長に戸長を、複数の小区をまとめた大区の長に区長をおいた。
区長は官選。
1878年の郡区町村編制法により廃止された。
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- 区長は官選(くちょうはかんせん)
大区小区制において、区長は官選(政府が選ぶ)だった。
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- 戸長は最初公選、後に官選(こちょうはさいしょこうせん、のちにかんせん)
大区小区制において、戸長は最初は公選(選挙で選ぶ)であり、後に官選(政府が選ぶ)になった。
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- 琉球島民が殺害される(りゅうきゅうとうみんがさつがいされる)
1871年
11月に台湾に漂着した琉球島民が殺害された。
その後、これを受けて日本は台湾に出兵した。
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- 華族(かぞく)
1869年から存在した近代日本の貴族階級。
大名は公卿とともに華族に列せられた。
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- 士族(しぞく)
明治維新以降、旧幕臣や旧藩士などは士族という身分階級を与えられた。
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- 府知事(ふちじ)
廃藩置県により府・県ができると、地方長官を知事と呼んだが、1886年以降は府に関しては府知事の呼称となって現在に至る。
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- 県令(けんれい)
1871年8月の廃藩置県により府・県ができると、地方長官を知事と呼んだが、県については同年11月から1886年まで県令と称した。1886年以降は県に関しては県知事の呼称となって現在に至る。
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- 三島通庸(みしまみちつね)
1835年 - 1888年
武士(薩摩藩士)。内務官僚。
1871年、東京府参事。文明開化の象徴と言われた銀座煉瓦街を建設した。のちの県令時代には反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」と呼ばれた。
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- 日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)
1871年
日本と清の間で結ばれた対等条約。
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- 岩倉具視(いわくらともみ)
1825年 - 1883年
公家。政治家。
1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。
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- 岩倉使節団(いわくらしせつだん)
1871年
欧米諸国に派遣された使節団。
右大臣である岩倉具視が一行を率い、不平等条約の改正を狙った。
アメリカなどの政治や産業の発展状況を視察した。
年号を聞かれる問題も時々出るので「岩無い(1871)岩倉使節団」とでも覚えてください。
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- 岩倉使節団に参加した人(いわくらしせつだんにさんかしたひと)
1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した主な人は、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、津田梅子です。
覚え方は「岩(いわ)多(おお)い時(とき)美味(うめ)ー」です。
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- 津田梅子(つだうめこ)
1864年 - 1929年
教育者。女子教育の先駆者。
最年少の満6歳で岩倉使節団に随行し、アメリカ留学を果たした。
後に日本に戻り女子英学塾を開設した。
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- 西郷隆盛(さいごうたかもり)
1828年 - 1877年
武士(薩摩藩士)。軍人。政治家。
討幕活動で活躍し、倒幕後に政治家になった人。
岩倉使節団が派遣されている間、留守政府(日本で留守番をしている政府)を運営した。
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- 板垣退助(いたがきたいすけ)
1837年 - 1919年
武士(土佐藩士)。政治家。
岩倉使節団が派遣されている間、留守政府(日本で留守番をしている政府)を運営した。
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- ガス灯(がすとう)
1872年には横浜に、1874年には東京の銀座通りでガス灯が灯され、文明開化の象徴となった。
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- 尚泰(しょうたい)
1843年 - 1901年
最後の琉球国王。
廃藩置県で琉球王国は鹿児島県に編入されたが、1872年に琉球藩が置かれ、尚泰は藩王として華族となった。
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- 富岡製糸場(とみおかせいしじょう)
1872年
産業の近代化を目指す明治政府が設立した官営模範工場。
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- 富岡製糸場はフランスの技術の導入・普及を図った(とみおかせいしじょうはフランスのぎじゅつのどうにゅう・ふきゅうをはかった)
富岡製糸場はフランスの先進技術の導入・普及をはかった。
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- ブリューナ
1840年 - 1908年
フランス人の生糸技術者。
正式な名前はポール・ブリューナ。
お雇い外国人として富岡製糸場の設立に携わった。
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- 最初の官営鉄道(さいしょのかんえいてつどう)
1872年
日本最初の官営鉄道が新橋、横浜間で正式開業した。
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- 中村正直(なかむらまさなお)
1832年 - 1891年
啓蒙思想家。教育者。文学博士。
スマイルズの『西国立志編』やJ.S.ミルの『自由之理』などの訳書で有名。
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- 中村正直が訳書『西国立志編』を出す(なかむらまさなおがやくしょ『さいごくりっしへん』をだす)
中村正直がスマイルズの『自助論』を翻訳した『西国立志編』を出した。
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- スマイルズ
1812年 - 1904年
イギリスの著述家。
スマイルズの『自助論』を中村正直が『西国立志編』として訳した。
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- 中村正直が訳書『自由之理』を出す(なかむらまさなおがやくしょ『じゆうのり』をだす)
中村正直がJ.S.ミルの『On Liberty』を翻訳した『自由之理』を出した。
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- J.S.ミル(ジェイ・エス・ミル)
1806年 - 1873年
イギリスの思想家。経済学者。
J.S.ミルの『On Liberty』を中村正直が『自由之理』として訳した。
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- 学制(がくせい)
1872年に発された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。国民皆学をめざし、女子も小学校に就学させることとした。
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- 学制交付直後の女子の就学率(がくせいこうふちょくごのじょしのしゅうがくりつ)
学制交付直後、女子の就学率は男子の半分にも満たなかった。
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- 江藤新平が初代司法卿になる(えとうしんぺいがしょだいしほうきょうになる)
1872年
江藤新平が初代司法卿に就任した。
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- 国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)
1872年公布。
不換紙幣を整理し、民間の力で兌換紙幣である兌換銀行券を発行させようと公布された条例。
「国立」とは「国の法に基づいて」という意味であり、国営ではなく民営の銀行を設立させるための条例である。
渋沢栄一が中心となって作成した。
発行銀行券の正貨兌換が義務付けられていたため、国立銀行は1876年の国立銀行条例改正で兌換義務が取り除かれるまで設立数が伸び悩んだ。
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- 兌換紙幣(だかんしへい)
正貨との交換が約束された紙幣。
正貨とは、紙幣で表示する価格と同じ値打ちの「金貨」や「銀貨」などのこと。
より正確に言えは、金本位制においては正貨は「金貨」、銀本位制においては正貨は「銀貨」となる。
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- 渋沢栄一(しぶさわえいいち)
1840年 - 1931年
武士(幕臣)。官僚。実業家。日本資本主義の父。
1872年に公布された国立銀行条例の作成に尽力した。
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- 徴兵令(ちょうへいれい)
国民の兵役義務を定めた法令のこと。明治5年(1872年)に「こんな感じの徴兵制度を作るよ」って発表する(徴兵告諭)。1873年の1月に徴兵令が執行された。
徴兵告諭に基づき発布された徴兵令は、国民皆兵を原則とした。
徴兵制度は民衆にとって負担となり、血税一揆などの抵抗を生んだ。
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- 血税一揆(けつぜいいっき)
徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。
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- 明治の改暦(めいじのかいれき)
1873年
暦について欧米との統一をはかるため、日本は太陽暦(グレゴリオ暦)へと改暦し、定時法(昼・夜、季節と関係なく1日を24等分した時刻を使うこと)を採用した。
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- 紀元節(きげんせつ)
1873年制定
2月11日を神武天皇が即位した日として「紀元節」とし、祝日とした。
1948年にGHQの意向で一度廃止されたが、その後、復古運動によって復活の機運が高まり1966年以降は2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日となった。
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- 第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう)
1873年
前年に制定された国立銀行条例に基づいて7月20日に東京に設立された日本で初めての銀行。
渋沢栄一が第一国立銀行の頭取になる。
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- 森有礼・福沢諭吉らが明六社を設立する(もりありのり・ふくざわゆきちらがめいろくしゃをせつりつする)
1873年
のちに初代文部大臣となる森有礼や『学問のすゝめ』などの著作で知られる福沢諭吉らが明六社を設立する。
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- 明六社(めいろくしゃ)
1873年
7月に森有礼、福沢諭吉らによって結成された日本最初の近代的啓蒙学術団体。
『明六雑誌』を発行して、啓蒙思想の普及につとめた。
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- 三池炭鉱(みいけたんこう)
福岡柳川藩・三池藩営から明治政府が引き継いで1873年に官営。
1889年に三井財閥が経営を引き継いだ炭鉱。
団琢磨という鉱山技師のもとで急速に発展した。
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- 地租改正(ちそかいせい)
1873年
7月28日に公布された。
地価の3%を金納する。
地租改正により課税基準は収穫高から地価に改められた。また、これにより制度としての検地は廃止された。
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- 地券(ちけん)
地券の交付を受けた土地所有者が納税者として確定された。
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- 入会地(いりあいち)
一定地域の住民が平等に利用する山林原野や漁場のこと。
地租改正に伴い、所有権を証明できない入会地は官有地に編入された。
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- 征韓論(せいかんろん)
明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張。
正確には、西郷の意見は江藤、板垣らと異なり、出兵ではなくまず自らが使者として朝鮮に赴くという「遣韓論」を主張した。
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- 明治六年の政変(めいじろくねんのせいへん)
1873年
征韓論争により政府が分裂した政変。
征韓論は大久保利通、木戸孝允らの反対によって実現せず、征韓派の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らは一斉に下野(政治家を辞めた)した。
これ以後、大久保利通が政権を指導する。
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- 明治六年の政変で下野した征韓派(めいじろくねんのせいへんでげやしたせいかんは)
明治六年の政変で下野した征韓派は西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎。
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- 内務省(ないむしょう)
1873年設置。
征韓論がきっかけとなった政変を機に大久保利通が設置した、警察や地方行政などを管轄する省。
自ら初代内務卿として実権を握った。
設置年の覚え方は「いや、並み(1873)の人じゃ無い!内務省設置!大久保利通!」です。
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- 殖産興業(しょくさんこうぎょう)
明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策。
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- 富国強兵(ふこくきょうへい)
明治政府は自立した近代国家を作るために西洋の技術を導入し、殖産興業を推進した。この「国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策」のことを富国強兵という。
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- 寺島宗則(てらじまむねのり)
1832年 - 1893年
政治家。
1873年、参議兼外務卿となると、政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスなどの反対で失敗した。
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- 岩崎弥太郎(いわさきやたろう)
1835年 - 1885年
三菱財閥の創業者で初代総帥。
1873年三菱商会を創設。
海運業で成功した岩崎弥太郎は、三菱財閥の基礎をつくった。
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- 愛国公党(あいこくこうとう)
1874年
1月に明治六年の政変で下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らによって設立された日本最初の政党。
彼らは民選議院設立の建白書を左院に提出し政界・言論界に波紋を起こしたが、江藤新平の佐賀の乱参加の影響もあってほどなく解体した。
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- 立志社(りっししゃ)
1874年
愛国公党の解散後、板垣退助が土佐に帰り設立した士族中心の政社。
1883年に自由党結成を機に解散した。
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- 明六雑誌(めいろくざっし)
明六社の機関紙。1874年創刊、1875年停刊。全43号。
近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、西洋の文明が日本に入ってきて制度や習慣が大きく変化していた時期である文明開化時期の日本に大きな影響を与えた。福沢諭吉も著者として参加してた。
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- 板垣退助が民撰議院設立の建白書を提出する(いたがきたいすけがみんせんぎいんせつりつのけんぱくしょをていしゅつする)
1874年
征韓論に敗れて下野していた板垣退助らが、1874年に専制政府を批判し、政府に民撰議院設立(国会開設)の建白書を提出した。
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- 民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)
1874年
板垣退助ら愛国公党が左院に提出した、国会(民撰議院)開設の要求。
自由民権運動の端緒となった。
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- 民撰議院設立の建白書は左院に提出される(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょはさいんにていしゅつされる)
民撰議院設立の建白書は左院に提出された。
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- 日新真事誌(にっしんしんじし)
イギリス人のジョン・レディ・ブラックが1872年に創刊した日本語の新聞。
1874年に板垣退助らの民撰議院設立建白書をいち早く掲載し、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。
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- 江藤新平(えとうしんぺい)
1834年 - 1874年
幕末の佐賀藩士、明治時代の政治家。
1874年に不平士族を率いて佐賀の乱を起こすが鎮圧された。
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- 佐賀の乱(さがのらん)
1874年
佐賀県の士族が中心となって起こした反乱。
鎮圧された。
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- 新島襄(にいじまじょう)
1843年 - 1890年
宗教家。教育者。
1875年、同志社英学校を設立し、キリスト教精神による教育を行った。
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- 愛国社(あいこくしゃ)
1875年
大阪で結成した政社。
一度解散したが1878年に再興。
自由民権運動の全国的組織となった。
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- 大阪会議(おおさかかいぎ)
1875年
2月に、明治政府の要人である板垣退助、大久保利通、木戸孝允らが大阪府に集い、今後の政府の方針および参議就任などの案件について協議した会議。
漸進的に立憲政治を確立するという基本方針を決定した。
その結果、1875年に「漸次立憲政体樹立の詔」が発布され、元老院・大審院を設置し、地方官会議が招集されることになった。
参加した人の覚え方は「板が大きど大阪会議」です。
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- 漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)
1875年
大阪会議後に出された詔。
漸進的に立憲政治を確立するという基本方針が示され、この漸次立憲政体樹立の詔に基づいて、元老院・大審院が設けられた。
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- 元老院(げんろういん)
1875年
漸次立憲政体樹立の詔に基づいて、左院を廃止して設けられた立法機関。
法律案を審議する。
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- 大審院(だいしんいん)
1875年
漸次立憲政体樹立の詔に基づいて設けられた司法権を執行する最高機関。
現在の最高裁判所に当たる。
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- 樺太・千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)
1875年
5月に署名。
日本とロシア帝国との間で国境を画定するために結ばれた条約。
日本は樺太での一切の権利をロシアに譲り、千島全島を領有した。
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- 日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)
1876年
日本が朝鮮に軍事的圧力をかけて結んだ、朝鮮に不利な不平等条約。
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- クラーク
1826年 - 1886年
アメリカ合衆国の教育者。
正式名ウィリアム・スミス・クラーク。クラーク博士として知られる。
1876年に札幌農学校開校。初代教頭。「少年よ、大志を抱け」の言葉が有名。
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- 札幌農学校
クラークが教頭を務めた学校。
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- 工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)
1876年設立。
日本最初の美術教育機関。工部大学校の付属機関として設置された。1883年廃校。
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- ファンタネージ
1818年 - 1882年
工部美術学校に招かれ、西洋画を指導したイタリア人風景画家。
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- 犂(すき)
牛や馬などに引かせる農具。
1876年ごろから日本全国に普及し始めた。
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- ベルツ
1849年 - 1913年
ドイツ人の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。
27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。
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- ベルツの日記
ベルツは日本滞在中に日記を書いた。
明治時代を知る史料。
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- 西郷隆盛が西南戦争で敗れる(さいごうたかもりがせいなんせんそうでやぶれる)
1877年
西郷隆盛は不平士族を率いて鹿児島で西南戦争を起こすが鎮圧された。
西郷は城山で自刃した。日本国内で最後の内戦。
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- 西南戦争(せいなんせんそう)
1877年
西郷隆盛を首領とし、鹿児島の士族が中心となって蜂起した最大規模の士族反乱。
鎮圧された。
また、この時明治政府は戦費調達を目的に不換紙幣を増発し、後のインフレ要因の一つになった。
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- 地租改正反対一揆(ちそかいせいはんたいいっき)
地租改正に反対する農民一揆。特に1876年に大きな一揆が発生し、1877年に税率が3%から2.5%に引き下げられた。
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- 竹槍でちょいと突き出す二分五厘(たけやりでちょいとつきだすにぶごりん)
1876年の伊勢暴動(大規模な地租改正反対一揆)により、1877年に地租が3%から2.5%に引き下げられたことを指して言われた言葉。
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- 古河市兵衛(ふるかわいちべえ)
1832年 - 1903年
実業家。古河財閥の創業者。
1877年に栃木県の足尾銅山を取得した後、秋田県の院内銀山や阿仁銅山の払い下げも受けるなど、多くの鉱山を経営したことから鉱山王と称され、のちの「古河財閥」の基礎を築いた。
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- 足尾銅山(あしおどうざん)
日本の著名な銅山。
古河市兵衛が取得し、後に総理大臣となる原敬も一時経営に関わった。
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- 原敬(はらたかし)
1856年 - 1921年
後の第19代内閣総理大臣。
足尾銅山の経営に一時関わった。
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- 煙害(えんがい)
銅の生産の増加にともない、各地の銅山では煙害が発生した。
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- モース
1838年 - 1925年
アメリカの動物学者。本名エドワード・シルヴェスター・モース。
標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。1877年に大森貝塚を発掘したことで有名。
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- 高橋由一(たかはしゆいち)
1828年 - 1894年
洋画家。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の洋画家と言われる。代表作は1877年に作成した「鮭」で重要文化財になっている。
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- 活歴(かつれき)
歌舞伎の一様式。
明治10年代に流行した。
それまでの歌舞伎ではしばしば荒唐無稽な設定がみられたが、活歴では史実に即した演出を行った。
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- 散切物(ざんぎりもの)
歌舞伎世話狂言の一種。
新時代の風俗をとり入れたもの。
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- 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
1816年 - 1893年
江戸歌舞伎の人気作者。
東京日日新聞を題材とした散切物の作品もある。
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- 河竹黙阿弥が東京日日新聞を題材にする(かわたけもくあみがとうきょうにちにちしんぶんをだいざいにする)
1873年に河竹黙阿弥は東京日日新聞を題材にした散切物を作成した。
参考
河竹黙阿弥
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- 福地源一郎(ふくちげんいちろう)
1841年 - 1906年
福地桜痴とも呼ばれる。
1874年に東京日日新聞に入社し主筆となる。
1876年には東京日日新聞の社長となる。
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- 東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)
1872年2月創刊の日刊紙。
1874年に福地源一郎が入社した。
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- 新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)
1875年
政府を攻撃する新聞・雑誌の弾圧を目的とした言論弾圧法。
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- 立志社建白(りっししゃけんぱく)
1877年
立志社社長が中心となって天皇に提出した建白書。
兵制・税制・外交の失敗などを挙げて政府を批判し、地租の軽減や徴兵制度の廃止などを求めるとともに、民撰議院の設立および立憲政体の確立を提案する内容となっていた。
すぐに却下されたが民権運動を国会開設請願運動へ導いた影響は大きかった。
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- 紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年
5月14日に東京紀尾井坂で大久保利通が暗殺された事件。
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- 郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)
1878年
大区小区制を廃止して、都市部を区、その他を郡とし、その下に町村をおく郡区町村編制法を施行した。
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- 沖縄県(おきなわけん)
1879年
琉球藩が廃され、沖縄県が置かれた。
このとき、琉球王国の一部だった奄美諸島は鹿児島県に残った。
先島諸島については日本の琉球領有を認めない清に割譲する案もなされたが決着せず、日清戦争後、日本の領有となった。
年号の覚え方は「いや(18)だ!泣く(79)ぞ!琉球廃止、沖縄設置」です。
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- 先島諸島(さきしましょとう)
沖縄県西南部の宮古諸島と八重山諸島の総称。
琉球藩が廃止され、沖縄県が置かれた時、先島諸島については日本の琉球領有を認めない清に割譲する案もなされたが決着せず、日清戦争後、日本の領有となった。
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- 千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)
1879年操業開始。
日本最初の近代的毛織物工場。
戦後の1945年に地元の大和毛織に売却され、1960年に操業停止となった。
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- 横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)
1880年 - 1946年
2月設立。
横浜の貿易商たちが1880年、貿易金融を目的に設立。
外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた特殊銀行。
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- 集会条例(しゅうかいじょうれい)
1880年
4月公布。
自由民権運動の弾圧を目的として制定された、政社の活動を制限する法令。
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- 工場払下げ概則(こうじょうはらいさげがいそく)
1880年制定。
官営工場払下げのための規則。
1884年廃止。
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- 植木枝盛(うえきえもり)
1857年 - 1892年
高知出身の自由民権運動家。
立志社に入り、自由党の理論家・活動家として「東洋大日本国国憲按」という急進的な私擬憲法(憲法私案)を作成した。
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- 「(東洋)大日本国国憲按」((とうよう)だいにほんこくこっけんあん)
植木枝盛が作成した急進的な私擬憲法(憲法私案)。
広範な人権保障、権限の強い一院制議会、抵抗権・革命権などが盛り込まれている。
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- 「私擬憲法案」(しぎけんぽうあん)
民間団体の交詢社の私擬憲法(憲法私案)。
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- 「五日市憲法草案」(いつかいちけんぽうそうあん)
「日本帝国憲法」ともいう。
東京の五日市(現、あきる野市)で活動していた学芸講談界のグループによる私擬憲法。
国民の権利の保障に力点を置いた。
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- 「日本憲法見込案」(にほんけんぽうみこみあん)
板垣退助が設立した立志社の私擬憲法(憲法私案)。
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- 大隈重信と伊藤博文の対立(おおくましげのぶといとうひろぶみのたいりつ)
大久保利通亡き後、明治維新を主導した「薩摩、長州、土佐、肥前」が中心となって政治を行う藩閥政治を批判する自由民権運動が盛んになっていた。
国会開設運動が興隆するなかで、いつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。
移行に対して大隈重信は「急進派」の立場をとったのに対し、伊藤博文は「漸進派」の立場をとった。
また、憲法制定に関しては大隈重信は『イギリス型の議院内閣制』を支持したのに対し、伊藤博文は君主大権を残す『ビスマルク憲法』を参考にすべしと主張した。
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- 大隈重信は急進派
立憲体制への移行に関して、大隈重信は急進派(一気に進める)の立場をとった。
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- 伊藤博文は漸進派
立憲体制への移行に関して、伊藤博文は漸進派(段階を追って少しずつ進める)の立場をとった。
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- 大隈重信はイギリス型の議院内閣制を支持する
憲法制定に関して、大隈重信は『イギリス型の議院内閣制』を参考にすべしとの立場をとった。
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- 伊藤博文はビスマルク憲法を支持する
憲法制定に関して、伊藤博文は君主大権を残す『ビスマルク憲法』を参考にすべしとの立場をとった。
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- 黒田清隆が五代友厚への開拓使官有物の払下げを決定する(くろだきよたかがごだいともあつへのかいたくしかんゆうぶつのはらいさげをけっていする)
1881年
北海道開拓使長官だった黒田清隆が開拓使官有物を同じ薩摩出身である政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払い下げは中止となった(開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん))。
この事件で黒田清隆は開拓長官を辞任した。
明治十四年の政変のきっかけとなった。
黒田清隆は後の第2代内閣総理大臣。
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- 五代友厚(ごだいともあつ)
1836年 - 1885年
武士(薩摩藩士)。実業家。
1881年に、当時北海道開拓使長官だった黒田清隆が開拓使官有物を同じ薩摩出身である政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払い下げは中止となった(開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん))。明治十四年の政変のきっかけとなった。
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- 大隈重信が自由民権派に味方する(おおくましげのぶがじゆうみんけんはにみかたする)
開拓使官有物払下げにより、政府への強い批判が起こり、それまであった自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。
大隈派も黒田の払い下げが不当に廉価であり中止すべきと公然と主張した。
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- 伊藤博文が大隈重信をやめさせる(いとうひろぶみがおおくましげのぶをやめさせる)
1841年 - 1909年
武士(長州藩士)。政治家。
自由民権派に味方した大隈重信に対して「反政府陰謀である」とし、1881年、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。
天皇が行幸から帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔などが公表された。
また大隈邸を伊藤が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。
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- 明治天皇(めいじてんのう)
1852年 - 1912年
第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。
1881年に国会開設の詔を出した。内容は1890年(明治23年)を期して議員を召して国会を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明するものであり、議会創設の時期を明示して自由民権運動の鎮静化を図るものであった。
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- 明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)
1881年
自由民権運動の流れの中、憲法制定に関して『ビスマルク憲法』を参考にすべしという伊藤博文と『イギリス型の議院内閣制』を参考にすべしという大隈重信が争い、大隈重信が追放された事件。
以下一連の出来事をもって
- 開拓使官有物払い下げの中止
- 10年後の国会開設の公約
- 参議大隈重信一派の追放
明治十四年の政変という。
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- 自由党(じゆうとう)
1881年結党。
板垣退助を総理とする政党。
農村部の地主が有力基盤となり、立憲改進党とは対照をなした。
洋行問題や不況を背景とする高田事件や飯田事件などの激化事件の影響で1884年10月に解党となった。
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- 大隈重信(おおくましげのぶ)
1838年 - 1922年
明治十四年の政変により野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、1882年に小野梓とともに立憲改進党を結成した。
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- 立憲改進党(りっけんかいしんとう)
1882年 - 1896年
明治十四年の政変によって追放された大隈重信を党首として結党された政党。
イギリス流の議院内閣制を主張する。
都市部の有産有職層が地盤となり、自由党とは対照をなした。
大隈重信は1884年に脱党したが、党に対して影響力を保持した。
1896年進歩党を結成して解党。
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- 『郵便報知新聞』(ゆうびんほうちしんぶん)
立憲改進党の機関紙。
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- 尾崎行雄(おざきゆきお)
1858年 - 1954年
1882年に大隈重信を党首とする立憲改進党に参加した。
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- 中江兆民(なかえちょうみん)
1847年 - 1901年
思想家。ジャーナリスト。政治家。
1882年にルソーの『社会契約論』を漢文訳した『民約訳解』を刊行した。
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- 民約訳解(みんやくやくかい)
中江兆民が1882年に刊行した、ルソーの「社会契約論」を翻訳したもの。
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- ルソー
1712年 - 1778年
フランスの作家。思想家。
ルソーの『社会契約論』を中江兆民が『民約訳解』として訳した。
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- 集会条例の改正(しゅうかいじょうれいのかいせい)
1882年
集会条例を改正し、政党の支社設置を禁止した。
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- 松方正義が松方デフレを実施する(まつかたまさよしがまつかたデフレをじっしする)
松方正義は1881年に大蔵卿に就任した。
西南戦争時に戦費調達のために増発された不換紙幣がインフレの要因の一つとなっていた為「松方デフレ」と呼ばれるデフレ政策を実施した。
政府はこの政策で正貨を蓄積し、1882年に中央銀行として日本銀行を設立。翌1883年には国立銀行条例の改正により国立銀行から銀行券発行権を取り上げた。
1885年からは日本銀行による銀兌換の銀行券の発行が開始され、銀本位の貨幣制度が整備された。
一方、デフレ政策により米・繭などの物価が著しく下落したことは人々に大きな打撃を与えた。
松方正義は後に第4代、第6代の内閣総理大臣に任命される。
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- 日本銀行(にほんぎんこう)
松方正義が大蔵卿の時の1882年に中央銀行として日本銀行を設立した。1885年に銀と兌換できる日本銀行券を発行し始めた。
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- 福島事件(ふくしまじけん)
1882年
自由民権運動の中で1882年(明治15年)、県令三島通庸が会津三方道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件。民権激化事件の一つ。
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- 福沢諭吉が時事新報を創設する(ふくざわゆきちがじじしんぽうをそうせつする)
1882年
福沢諭吉が『時事新報』を創設した。
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- 時事新報(じじしんぽう)
1882年
福沢諭吉が創設した日刊紙。
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- 福地源一郎が立憲帝政党を結成する(ふくちげんいちろうがりっけんていせいとうをけっせいする)
1882年
福地源一郎が立憲帝政党を結成した。
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- 立憲帝政党(りっけんていせいとう)
1882年
自由党・立憲改進党に対抗して福地源一郎が結成した政府系政党。
年号の覚え方は「自由党とか立憲改進党とか嫌(18)な奴(82)らをぶっ潰す!政府系政党の立憲帝政党結成」です。
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- 大阪紡績会社(おおさかぼうせきがいしゃ)
1882年
渋沢栄一が創立を指導して設立した会社。
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- 鉄道馬車(てつどうばしゃ)
1882年に新橋・日本橋間に鉄道馬車が開通した。
鉄道馬車とはレールの上を走る乗合馬車のこと。
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- 天賦人権論(てんぷじんけんろん)
「人間は生まれながらに自由で平等だよ!幸福を追求する権利を持ってるんだよ!」っていう理論。
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- 人権新説(じんけんしんせつ)
1882年
天賦人権論を批判した書籍。
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- 馬場辰猪(ばばたつい)
1850年 - 1888年
自由民権運動家。
天賦人権論を主張した。
『天賦人権論』の著者。
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- 天賦人権論(てんぷじんけんろん)
1883年
馬場辰猪が書いた書。
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- シュタイン
1815年 - 1890年
ドイツの法学者。思想家。本名ローレンツ・フォン・シュタイン。
1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文に、プロイセン(ドイツ)式の憲法を勧めた。伊藤にドイツ式を選択させた背景にはシュタインの存在が大きい。
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- 井上馨(いのうえかおる)
1836年 - 1915年
武士(長州藩士)。政治家。実業家。
不平等条約改正のために文明国であることを示すため、欧化政策を推進して鹿鳴館を建設した。
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- 鹿鳴館(ろくめいかん)
1883年
国賓や外国の外交官を接待するため明治政府によって建てられた社交場。不平等条約改正のために日本が文明国であることを広く諸外国に示そうと考えた外務卿の井上馨の計画で建てられた。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在であった。
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- 高田事件(たかだじけん)
1883年
新潟県高田地方の自由党員が政府高官暗殺を計画した嫌疑で逮捕、処罰された。
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- 華族令(かぞくれい)
1884年
将来開設する上院(貴族院)の土台を作るために制定された。
- 華族を公候伯子男の五爵に分けた
- 明治維新の功臣にも爵位が与えられた
- 「本人一代限りの終身華族」という制度が廃止され、全てが「永世華族」になった
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- 加波山事件(かばさんじけん)
1884年
1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令の三島通庸等の暗殺未遂事件。
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- フェノロサ
1853年 - 1908年
明治時代に来日したお雇い外国人。
1878年に東京大学文学部に着任したアメリカ人。
日本美術界が西洋美術を導入するなかで、岡倉天心らとともに、日本美術の再評価を明治政府に働きかけた。
1884年に法隆寺の夢殿の中で封印されていた救世観音像を開かせた。
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- フェノロサが救世観音像を開かせたのは法隆寺(フェノロサがぐぜかんのんぞうをひらかせたのはほうりゅうじ)
法隆寺は607年に厩戸皇子が作ったお寺。
1884年にフェノロサは法隆寺の夢殿の中で封印されていた救世観音像を開かせた。
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- 救世観音像(ぐぜかんのんぞう)
厩戸王の等身とも伝えられていた法隆寺に存在する木像。
長らく秘仏として公にされないままだったが、1884年にフェノロサが夢殿の中で封印されていた救世観音像を開かせた。
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- 飯田事件(いいだじけん)
1884年
12月、自由党急進派が政府転覆を計画したが、事前に発覚して処罰された。
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- 日本郵船会社(にっぽんゆうせんがいしゃ)
1885年に三菱(三菱会社)と共同運輸会社が合併して設立された。
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- 佳人之奇遇(かじんのきぐう)
1885年から1897年にかけて断続して発表された長編小説。
東海散士著。
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- 東海散士(とうかいさんし)
1852年 - 1922年
小説家。本名柴四朗。
『佳人之奇遇』の著者。
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- 坪内逍遙(つぼうちしょうよう)
1859年 - 1935年
文学者。劇作家。
早稲田大学の教授を務める。
島村抱月とともに西洋演劇を紹介する。
写実主義を主張する。
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- 写実主義(しゃじつしゅぎ)
坪内逍遥は世情をそのままとする写実主義を主張した。
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- 阿仁銅山(あにどうざん)
1885年に古河市兵衛に払い下げられた。
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- 太政官制から内閣制へ(だじょうかんせいからないかくせいへ)
1885年
1885年12月22日に、「政体書によって設置された太政官が最高行政機関である太政官制」を廃止して「内閣総理大臣と各省大臣による内閣制」が定められ、内閣制度が始まった。
年号の覚え方は「他人(ひと、1)のパパ(88)こ(5)わい、太政官制から内閣制へ」です。
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- 内閣制度(ないかくせいど)
1885年
- 宮中事務を担当する宮内省は閣外におかれた
- 各国務大臣は天皇に対し直接責任を負った
- 天皇の常時補弼の任に当たる内大臣が、宮中におかれた
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- 第1次伊藤博文内閣(だいいちじいとうひろぶみないかく)
1885年12月22日 - 1888年4月30日
伊藤博文が初代内閣総理大臣として任命された内閣。
日本の最初の内閣。
1887年に保安条例を制定。
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- 第1次伊藤博文内閣で井上馨が外務大臣になる
第一次伊藤博文内閣で井上馨が外務大臣になる。
その任期中、ノルマントン号事件がおこり、領事裁判権撤廃の世論が高まった。
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- 森有礼(もりありのり)
1847年 - 1889年
第1次伊藤博文内閣で、文部大臣の森有礼のもとで学校令が制定された。
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- 学校令(がっこうれい)
1886年
1886年(明治19年)3月2日から4月10日にかけて公布された帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令・諸学校通則の5勅令。
運動会も1886年の学校令発布の後に学校行事として広く行われるようになった。
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- モッセ
1846年 - 1925年
ドイツの法学者。
1886年5月に来日し、政府の顧問として地方自治制の整備にあたり助言を行った。
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- 雨宮製糸争議(あめみやせいしそうぎ)
1886年
山梨県甲府の地において、好条件を求めて働く工場を移動する女性労働者に対して、製糸業者が同業組合を結成して移動する自由を制限する規約を定めたところ、多数の女性労働者が抗議し、職場を放棄した争議。
日本初のストライキ。
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- ノルマントン号事件(のるまんとんごうじけん)
1886年10月24日
イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁、沈没した際、日本人乗客を見殺しにした疑いで船長の責任が問われたものの不問となり、船長らの人種差別行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。領事裁判権は8年後の1894年に撤廃された。
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- 徳富蘇峰(とくとみそほう)
1863年 - 1957年
1887年に民友社を創設した。
平民主義を主唱して、三宅雪嶺らと論争をくり広げた。
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- 聖林寺(しょうりんじ)
奈良にあるお寺。
フェノロサは1887年に聖林寺の秘仏、十一面観音像の禁を解いた。
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- 十一面観音像(じゅういちめんかんのんぞう)
聖林寺にある仏像。
江戸時代まで大神神社と一体であった寺院から、幕末に聖林寺に移されたと伝わる。
この仏像は大神神社を離れることで神仏分離令による廃仏毀釈を避けることができ、1887年にフェノロサによって秘仏の禁が解かれた。
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- 井上馨が領事裁判権の撤廃を狙う
1887年に井上馨は、外国人判事の採用と引き換えにした領事裁判権の撤廃を狙った。
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- 三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)
1887年
10月に「三大事件建白」という建白書をきっかけに起きた政治運動。
第一次伊藤内閣の井上馨外務大臣が不平等条約改正の会議の際に、相手に譲歩案を示したところ国内で反発運動が起きた。この騒動を受け高知県の民権派が今回の混乱は欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあるとし「三大事件建白」と呼ばれる以下の内容の建白書を提出した。
- 言論の自由の確立
- 地租軽減による民心の安定
- 外交の回復(対等な立場による条約改正実現)
これを元に政治運動が盛り上がったが、これに対して政府は同年12月、保安条例を発布した。
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- 保安条例(ほあんじょうれい)
1887年
自由民権運動を弾圧するための法律で、秘密の集会や結社の禁止や自由民権派の人物が皇居周辺に住むことを禁止し、民権派を東京の中心地から追い出した。
1898年廃止。
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- 高村光雲(たかむらこううん)
1852年 - 1934年
東京美術学校教授。仏師(仏像専門の彫刻家)出身。
伝統的な木彫技法と新しい写生的技法を融合させた木彫作品を作った。
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- 三宅雪嶺(みやけせつれい)
1860年 - 1945年
哲学者。評論家。国粋主義者。
政府の欧化主義を批判して、井上円了らと共に雑誌『日本人』を創刊した。
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- 福地源一郎が近代歌舞伎を執筆する(ふくちげんいちろうがきんだいかぶきをしっぴつする)
明治20年(1887年)代には福地源一郎が多くの近代歌舞伎を執筆した。
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- 市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)
1838年 - 1903年
九代目。歌舞伎俳優。
活歴を主導した。
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- 尾上菊五郎(おのえきくごろう)
1844年 - 1903年
五代目。歌舞伎俳優。
散切物に力を入れた。
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- 市川左団次(いちかわさだんじ)
1842年 - 1904年
初代。歌舞伎俳優。
明治座の再興に尽力した。
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- 明治座(めいじざ)
市川左団次は明治座の再興に尽力した。
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- 井上円了(いのうええんりょう)
1858年 - 1919年
仏教哲学者。教育者。
哲学館(現在の東洋大学)を設立。迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「妖怪博士」などと呼ばれた。世間のなりふり構わぬ西欧化に反感を抱き、1888年に政治評論団体「政教社」を設立し、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしと主張して機関紙『日本人』などを発行した。
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- 政教社(せいきょうしゃ)
1888年に東京にできた政治評論団体。
三宅雪嶺、井上円了らによって結成された。
機関紙『日本人』を発行した。
性格を変えながら1945年まで存続した。
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- 日本人(にほんじん)
1888年 - 1906年
雑誌。
三宅雪嶺、井上円了らが結成した言論団体『政教社』の機関紙として創刊された。
1902年から『日本及日本人』という名前に変更になった。
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- 山県有朋が地方制度の改革の中心となる(やまがたありともがちほうせいどのかいかくのちゅうしんとなる)
山県有朋が地方制度の改革の中心人物となり、1888年には市制・町村制が、1890年には府県制・郡制が公布された。
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- 市制・町村制(しせい・ちょうそんせい)
1888年公布。
- 市には市会をおく
- 市長は市会から推薦のあった者から内務大臣が選任する
- 町村には町村会をおく
- 町村長は町村会において選挙する
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- 狩野芳崖(かのうほうがい)
1828年 - 1888年
日本画家。近代日本画の父。
代表作は1888年に描き上げた『悲母観音』。フェノロサとも親交があった。
予定されていた東京美術学校教授就任前に死去した。
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- 三池炭鉱が三井に払い下げられる(みいけたんこうがみついにはらいさげられる)
1889年
三池炭鉱が三井財閥に払い下げられた。
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- 橋本雅邦(はしもとがほう)
1835年 - 1908年
日本画家。
フェノロサに認められ、明治23年(1890年)に東京美術学校創設とともに教授に就任した。
代表作は「白雲紅樹」「竜虎図」。
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- ヘボン
1815年 - 1911年
アメリカの宣教師。
1859年来日。
ローマ字を考案した。
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- 黒田清隆内閣(くろだきよたかないかく)
1888年4月30日 - 1889年10月25日
黒田清隆が第2代内閣総理大臣として任命された内閣。
1889年に大日本帝国憲法を公布した。
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- 枢密院(すうみついん)
1888年に大日本帝国憲法の草案を検討するために設置。
大日本帝国憲法に明記された天皇の最高諮問機関。
初代議長は伊藤博文。
年号の覚え方は「人(1)……パパ(88)!?パ(8)パなの!?よかった、無事だったのね!?ママは!?枢密院設置」です。
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- ロエスレル
1834年 - 1894年
ドイツの法学者。経済学者。
明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人。
大日本帝国憲法の草案作成にめちゃくちゃ貢献した。
大日本帝国憲法の草案は国民に極秘に進められ、1889年に黒田清隆内閣の下で発布された。
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- 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)
1889年に欽定憲法として発布された日本の憲法。
官報で公布された。
天皇の権限が強かった。
天皇が元首として統治権を総攬するとした。
法律の制定には帝国議会の協賛が必要とした。
年号の覚え方は『人は(18)約(89)束「憲法守る」大日本帝国憲法発布』です。
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- 皇室典範(こうしつてんぱん)
1889年
大日本帝国憲法の公布と同時に、皇位の継承、摂政の制などについて定められた皇室典範も制定された。
「臣民の敢えて干渉する所に非ざるなり」との理由で官報に公布されなかった。
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- 官報(かんぽう)
国の機関紙。
大日本帝国憲法は官報で公布されたが、皇室典範は公布されなかった。
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- 大日本帝国憲法は官報で公布される
大日本帝国憲法は官報で公布された。
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- 皇室典範は官報に公布されない
皇室典範は「臣民の敢えて干渉する所に非ざるなり」との理由で官報に公布されなかった。
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- 天皇が元首(てんのうがげんしゅ)
大日本帝国憲法の第4条で天皇を元首と定めた。
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- 議員法(ぎいんほう)
1889年
憲法の付属法。
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- 欽定憲法(きんていけんぽう)
君主(天皇)により制定される憲法のこと。
大日本帝国憲法は天皇が制定してこれを国民に与える欽定憲法であった。
対義語は民定憲法。
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- 外交大権(がいこうたいけん)
大日本帝国憲法下において、宣戦・講和・条約締結を天皇が裁決する権利。
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- 統帥権(とうすいけん)
大日本帝国憲法下において、軍隊の指揮統率の権能は天皇にあるとし、内閣からも独立していた。
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- 緊急勅令(きんきゅうちょくれい)
大日本帝国憲法下において、帝国議会閉会中に緊急の必要があるときには、天皇は、法律と同等の効力のある緊急勅令を制定できた。
ただし、次期議会の承認を必要とした。
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- 緊急勅令は次期議会の承認を必要とする
緊急勅令は次期議会の承認を必要とした。
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- 戒厳令(かいげんれい)
大日本帝国憲法下において、天皇は戦争などの非常事態の際に、行政権や司法権の行使を軍隊に委ねる戒厳令を発することができた。
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- 帝国議会(ていこくぎかい)
1889年の大日本帝国憲法発布から1947年の日本国憲法への改正まで設置されていた日本の最高立法機関。
(公選の)衆議院と(非公選の)貴族院からなる。
帝国議会は天皇に対する協賛権をもち、議会の同意なしに予算や法律は成立しなかった。
日本国憲法施行後は「国会」が正式の呼称となる。
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- 国務大臣(こくむだいじん)
国務大臣は天皇に対してのみ責任を負い、帝国議会に対しては責任を負わなかった。
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- 衆議院(しゅうぎいん)
貴族院と並んで帝国議会を構成した立法機関。
衆議院の予算先議権を除いて貴族院と対等であった。
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- 貴族院(きぞくいん)
衆議院と並んで帝国議会を構成した立法機関。
衆議院の予算先議権を除いて衆議院と対等であった。
構成メンバーは
- 皇族議員
- (互選によって選ばれた)華族議員
- 勅選議員
- 多額納税者議員
がいた。
貴族院に関する事項は、法律である議院法の定めのほか、貴族院令という勅令に定められていた。
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- 衆議院と貴族院は対等(しゅうぎいんときぞくいんはたいとう)
衆議院と貴族院の権限は衆議院の予算先議権を除いて対等であった。
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- 予算先議権(よさんせんぎけん)
予算を先に審議する権利のこと。
予算先議権を衆議院が持つ以外、衆議院と貴族院の権限は対等であった。
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- 協賛権(きょうさんけん)
大日本帝国憲法によれば「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と定められていた。
帝国議会は天皇に対する協賛権をもち、議会の同意なしに予算や法律は成立しなかった。
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- 二葉亭四迷(ふたばていしめい)
1864年 - 1909年
小説家。「浮雲」が有名。ロシア文学の翻訳家としても知られる。
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- 天満紡績争議(てんまぼうせきそうぎ)
1889年
大阪府西成の紡績工場で働く女性労働者が職場を放棄し、米価高騰を理由に賃金の引き上げなどを要求したところ、工場側が賃上げを約束して収束した争議。
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- 防穀令(ぼうこくれい)
1889年
朝鮮で凶作予防処置として発令した穀物輸出禁止令。日本商人が打撃を受けたとして日本側は撤回と賠償を要求。その後、朝鮮側は賠償金を払った。
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- 浅井忠(あさいちゅう)
1856年 - 1907年
洋画家。
1876年に工部美術学校に入学し西洋画を学ぶ。
1889年に明治美術会を設立。
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- 明治美術会(めいじびじゅつかい)
1889年
日本最初の洋風美術団体。
浅井忠が中心となって設立した。
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- 第1次山県有朋内閣(だいいちじやまがたありともないかく)
1889年12月24日 - 1891年5月6日
山県有朋が第3代内閣総理大臣として任命された内閣。
大幅な軍事予算比増強を提案するが「民力休養・政費節減」を主張する民党の反感を買い、議会運営に自信が無いとして山県は辞表を提出した。
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- 府県制・郡制(ふけんせい・ぐんせい)
1890年公布
- 府県会の議員は、郡会の議員の投票による間接選挙で選ばれた
- 府県の知事は官選(政府が選んだ)
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- 森鴎外(もりおうがい)
1862年 - 1922年
小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚。1890年代にロマン主義が盛んとなり、鴎外も1890年に短編小説「舞姫」、1892年 - 1901年に翻訳「即興詩人」を発表した。
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- ボアソナード
1825年 - 1910年
1890年に公布された民法の財産に関する部分(財産法)の草案を作成したフランス出身の御雇外国人。
起草した民事法に関しては論争(民法典論争)の末、結局施行されなかったが、現行民法にその影響がみられる。
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- 1890年公布の民法の財産に関する規定(せんはっぴゃくきゅうじゅうねんこうふのみんぽうのざいさんにかんするきてい)
1890年に公布された民法の財産に関する規定は、フランス民法に由来する規定が多かった。
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- 穂積八束(ほづみやつか)
1860年 - 1912年
法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。
ボアソナードが起草にかかわった民法を批判した。民法の施工を延期するか断行するかをめぐる論争(民法典論争)に際しては論文『民法出デテ忠孝亡ブ』を発表したことで有名。
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- 第1回衆議院議員総選挙(だいいっかいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)
1890年
7月に実施された最初の衆議院議員総選挙。
直接国税15円以上、25歳以上の男性に選挙権が与えられた。
藩閥政府と対立する民党が過半数を得た。
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- 第1回衆議院議員総選挙は普通選挙では無い
1890年7月に実施された第1回衆議院議員総選挙は直接国税15円以上、25歳以上の男性に選挙権が与えられた。
普通選挙(納税額などを条件とせず、一定年齢以上の全ての人に選挙権・被選挙権を与える制度)では無いことに注意。
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- 田中正造は第1回衆議院議員総選挙で選出される
後に足尾鉱毒事件の解決に奔走することになる田中正造は、第1回衆議院議員総選挙で選出された帝国議会議員であった。
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- 立憲自由党(りっけんじゆうとう)
第1回衆議院議員総選挙目前に自由党が再建され、選挙後の第一議会直前に立憲自由党が結成された。
第一議会の第一党。
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- 民党(みんとう)
立憲自由党・立憲改進党などの野党勢力のこと。
第1回衆議院議員総選挙では過半数を得た。
政費削減と民力休養を主張して藩閥政府と対立した。
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- 第一議会(だいいちぎかい)
1890年11月 - 1891年3月
第一帝国議会ともいう。
第1次山県有朋内閣の下で召集された議会。
民党(野党勢力のこと)が過半数を得て、第一党は立憲自由党。
民党が予算削減を求めて政府とはげしく対立したが、山県有朋内閣は立憲自由党の一部を切り崩して予算を成立させ、衆議院解散を回避した。
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- 立憲自由党が第一党
第一議会では立憲自由党が第一党(議席数を最も多く持つ政党)となった。
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- 衆議院解散の回避
第一議会では、民党が予算削減を求めて政府とはげしく対立したが、山県有朋内閣は立憲自由党の一部を切り崩して予算を成立させ、衆議院解散を回避した。
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- 自由党(じゆうとう)
1891年
国会開設を目前に四つの政派が集まって結成した政党。
当初は立憲自由党という党名だったが、1891年に板垣退助を総理として自由党に改称した。
初期には立憲改進党と連携して藩閥政府と対立し、民力休養・政費節減を訴えたが、対立が痛み分けに終わった後は藩閥と連立し、第2次伊藤博文内閣に閣僚を送り込んだ。
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- 第1次松方正義内閣(だいいちじまつかたまさよしないかく)
1891年5月6日 - 1892年8月8日
松方正義が第4代内閣総理大臣として任命された内閣。
大津事件などがあり閣僚が次々辞任し、最後には松方自身も辞表を提出した。
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- 青木周蔵(あおきしゅうぞう)
1844年 - 1914年
外交官。政治家。
第一次山県有朋内閣の時に引き続き第1次松方正義内閣でも外務大臣に留任し、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。が、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。
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- 大津事件(おおつじけん)
1891年
1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件。
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- 内村鑑三(うちむらかんぞう)
1861年 - 1930年
キリスト教思想家。文学者。
1891年に教育勅語への最敬礼を拒否したとして職を追われた。(内村鑑三不敬事件)
内村鑑三は後に黒岩涙香が創刊した日刊新聞「万朝報」に記者として参加する。
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- 久米邦武(くめくにたけ)
1839年 - 1931年
歴史学者。
論文『神道は祭天の古俗』が神道家に批判され、1892年に東大教授を辞職した。
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- 第2次伊藤博文内閣(だいにじいとうひろぶみないかく)
1892年8月8日 - 1896年9月18日
伊藤博文が第5代内閣総理大臣として任命された内閣。
板垣退助を内相に迎えて自由党と提携した。
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- 万朝報(よろずちょうほう)
1892年11月に黒岩涙香の手によって創刊された日刊新聞。
後に幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三らも参加した。
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- 黒岩涙香(くろいわるいこう)
1862年 - 1920年
作家、思想家、ジャーナリスト。
1892年に「万朝報(よろずちょうほう)」という日刊新聞を創刊した。
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- ボンベイ
1893年
日本郵船は紡績業に必要な綿花輸入のため日本初の遠洋定期航路であるボンベイ航路を開いた。
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- 富岡製糸場が三井に払い下げられた(とみおかせいしじょうがみついにはらいさげられた)
1893年
官営模範工場として技術の改良・普及に貢献した富岡製糸場だったが、赤字経営が多く、生産効率も悪かった。
抜本的な改革案として民営化が提言されるようになり、三井に払い下げられた。
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- 三井(みつい)
日本三大財閥のひとつ。
1893年に富岡製糸場の払い下げを受けた。
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- 松原岩五郎(まつばらいわごろう)
1866年 - 1935年
小説家。ジャーナリスト。
1893年に民友社から発行した、貧困層の生活を描いたルポルタージュ『最暗黒之東京』が高く評価された。
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- 文学界(ぶんがくかい)
1893年 - 1898年
58冊発行された、ロマン主義の月間文芸雑誌。北村透谷、島崎藤村、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田山花袋らが書いた。
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- 北村透谷(きたむらとうこく)
1868年 - 1894年
評論家。詩人。
近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。「文学界」の創刊に参加し、誌上で人間の感情を重視するロマン主義を説いた。
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- 高等学校令(こうとうがっこうれい)
1894年公布
中学校令の高等中学校を高等学校と改称。
修業年限3年。
この際、第一高等学校のほか5校を設立した。
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- 島崎藤村(しまざきとうそん)
1872年 - 1943年
詩人。小説家。
1890年代ロマン主義の文学作品が盛んになり藤村も1897年に詩集「若菜集」を発表した。
小説の著作としては『夜明け前』などがある。
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- 夜明け前(よあけまえ)
1929年~1935年発表。
島崎藤村の長編小説。
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
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- 樋口一葉(ひぐちいちよう)
1872年 - 1896年
小説家。
『たけくらべ』や『にごりえ』などを書いた作家として知られる。
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- たけくらべ
1895年
樋口一葉の短編小説。
吉原に住む少女と僧侶の息子との淡い恋を中心に、東京の子供たちの生活を吉原を背景に描き出した作品。
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- 北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
1853年 - 1931年
医学者・細菌学者。
ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を発見するなどし「日本の細菌学の父」として知られる。
1889年ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功。1890年世界で初めて血清療法を発見。1894年ペストの病原菌を共同発見。
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- 陸奥宗光(むつむねみつ)
1844年 - 1897年
第2次伊藤内閣の外相。
日清戦争開戦直前に日英通商航海条約を結び、条約改正に成功した。
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- 日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)
1894年
日清戦争開戦の直前に結ばれた。
内容は領事裁判権の廃止、関税自主権の一部回復など。
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- 清(しん)
1636年 - 1912年
この頃の中国の国名。
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- 甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)
1894年
朝鮮で起こった農民反乱。
鎮圧のため、清が軍隊を朝鮮に派遣すると、これに対抗して日本も朝鮮に出兵、やがて朝鮮の内政改革を求める日本とそれに反対する清との対立が強まった。
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- 日清戦争(にっしんせんそう)
1894年7月25日 - 1895年3月
朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争。
1894年8月に正式に日本は清に対して宣戦布告した。
近代化された日本軍は戦局を有利に進め、日本が勝った。
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- 下関条約(しものせきじょうやく)
1895年
日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより下関での講和会議を経て調印された条約。主に「朝鮮国の自主独立を認めること」「遼東半島、台湾、澎湖諸島などを日本に渡すこと」「賠償金2億テールを日本に支払うこと」「日本に最恵国待遇を認めること」などがある。
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- 下関条約の時の日本側全権(しものせきじょうやくのときのにほんがわぜんけん)
下関条約の時の日本側全権は伊藤博文と陸奥宗光。
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- 李鴻章(りこうしょう)
1823年 - 1901年
清の政治家。
下関条約の時の清国側の全権。
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- 台湾が日本の植民地になった(たいわんがにほんのしょくみんちになった)
1895年
下関条約により、台湾が日本の植民地になった。
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- 樺山資紀(かばやますけのり)
1837年 - 1922年
海軍軍人。
初代台湾総督に任命された。
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- 『太陽』(たいよう)
1895年発刊
総合雑誌。
国粋的思想のひとつである日本主義を唱えた。
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- 三国干渉(さんごくかんしょう)
1895年
下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島に関して、満州(中国東北地方)への進出をねらうロシアがドイツ、フランスとともに同半島の清への返還を日本に要求した。
日本は圧力に屈して要求をのんだ(その代わり賠償額を増額した)。
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- 三国干渉したのはロシア・ドイツ・フランス
1895年
遼東半島を清に返還するよう日本に三国干渉した国は「ロシア」「ドイツ」「フランス」の三国。
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- 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
復讐を誓って、今は苦しく辛い状態に耐えること。
三国干渉に関して、日本で言われた言葉。
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- 辰野金吾(たつのきんご)
1854年 - 1919年
建築家。
日本銀行本店を設計した。
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- 日本銀行本店(にほんぎんこうほんてん)
1896年竣工。
辰野金吾が設計した。
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- 航海奨励法(こうかいしょうれいほう)
1896年公布。
海外航路の拡張を目指して成立した法律。
1000総トン以上、速力10ノット以上で船齢が15年未満の鉄または鋼製の国内船による海外航海に対して奨励金を交付した。
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- 黒田清輝(くろだせいき)
1866年 - 1924年
洋画家。
フランスで学び、印象派風の明るい画風(外光派)をもたらした。
代表作は『湖畔』『読書』。
1896年に美術団体の白馬会を創設した。
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- 白馬会(はくばかい)
1896年
黒田清輝らが中心になって創設した美術団体。
美術界の主流となっていった。
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- 進歩党(しんぽとう)
1896年 - 1898年
立憲改進党を中心に少数派政党が加わり結成された。
党首は大隈重信。
1898年に自由党と合同して憲政党となった。
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- 第2次松方正義内閣(だいにじまつかたまさよしないかく)
1896年9月18日 - 1898年1月12日
松方正義が第6代内閣総理大臣として任命された内閣。
財政難の解決のために「地租増徴」案を松方が提案したところ、進歩党はこれに反対して倒閣の機運を生じさせ、その後松方は衆議院を解散し、内閣総辞職を行った。
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- 日本勧業銀行(にほんかんぎょうぎんこう)
1897年
7月設立。農工業の発展に寄与するために設立された特殊銀行。
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- 労働組合期成会(ろうどうくみあいきせいかい)
1897年
7月に高野房太郎・片山潜らによって結成された労働団体。
1900年の治安警察法の弾圧で衰退し、1901年に解消した。
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- 労働組合期成会を結成したのは高野房太郎と片山潜(ろうどうくみあいきせいかいをけっせいしたのはたかのふさたろうとかたやません)
1897年
7月に労働組合期成会を結成したのは高野房太郎と片山潜。
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- 朝鮮が大韓帝国に国号を変更(ちょうせんがだいかんていこくにこくごうをへんこう)
1897年
10月に朝鮮が大韓帝国に国号を変更した。
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- 貨幣法(かへいほう)
1897年制定
貨幣の製造および発行に関する事項を定めた法律。
金本位制を採用した。
これは、金本位制を取る欧米から資本や機械の輸入を行う際に、事実上の銀本位制であった日本は銀価格の暴落により貿易上不利な立場に置かれていたため、日清戦争賠償金の一部を正貨として金本位制を採用することにしたものである。
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- 志賀潔(しがきよし)
1871年 - 1957年
医学者。細菌学者。
1897年に赤痢菌を発見。12月に日本細菌学雑誌に赤痢菌発見の報告。
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- 尾崎紅葉(おざきこうよう)
1868年 - 1903年
小説家。
写実主義の考え方を通俗小説として展開した。
1897年から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。
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- 金色夜叉(こんじきやしゃ)
1897年から1902年まで連載された、尾崎紅葉が描いた明治時代の代表的な小説。執筆中に紅葉が亡くなったため、未完である。
新派劇が芝居の演目に取り入れた。
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- 新派劇(しんぱげき)
明治中期に新しく起こった、古い歌舞伎に対する新しい演劇。
尾崎紅葉の『金色夜叉』を芝居の演目に取り入れて人気を博した。
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- 第3次伊藤博文内閣(だいさんじいとうひろぶみないかく)
1898年1月12日 - 1898年6月30日
伊藤博文が第7代内閣総理大臣として任命された内閣。
「地租増徴」を目指して衆議院を解散したものの、政局運営に自信を失った松方正義に代わって伊藤が組閣した。
地租増徴案を出すものの進歩党と自由党に反対され否決されると衆議院を解散し、その後内閣を総辞職した。
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- 租借(そしゃく)
特別の合意のもと、他国の領土の一部を一定期間借りて統治すること。
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- ドイツが膠州湾を租借する(ドイツがこうしゅうわんをそしゃくする)
中国にある湾。
1898年から1914年までドイツは中国の膠州湾を租借した。
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- 九龍半島(きゅうりゅうはんとう)
中国の一地域。
1898年から1997年までイギリスは中国の九龍半島北部を租借した。
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- 威海衛(いかいえい)
中国の港湾都市。
1898年から1930年までイギリスは中国の威海衛を租借した。
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- イギリス
ヨーロッパにある国。
イギリスは中国の九龍半島と威海衛を租借した。
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- ロシアが旅順を租借する(ロシアがりょじゅんをそしゃくする)
1898年から、中国の遼東半島南部の最先端に位置する港である旅順をロシアが租借した。
その後、ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)で日本に租借権が移った。
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- 大連(だいれん)
中国の港湾都市。
1898年からロシアが租借したが、ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)で日本に租借権が移った。
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- ロシア
北アジアにある国。
1898年からロシアが旅順と大連を租借したが、ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)で日本に租借権が移った。
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- 福建省(ふっけんしょう)
中国の省の一つ。
日本は香港の対岸にある福建省が他国の勢力範囲になることを嫌い、中国に福建省の不割譲を確約させ勢力範囲とした。
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- 広州湾(こうしゅうわん)
中国にある湾。
1898年にフランスが侵略、占拠し、1899年から1945年まで租借した。
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- フランス
ヨーロッパにある国。
中国の広州湾を租借した。
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- 中国分割(ちゅうごくぶんかつ)
1898年に列強各国が中国を分割したことを指していう。
具体的にはドイツが膠州湾を、イギリスが威海衛と九龍半島北部を、ロシアは旅順と大連を、フランスは広州湾を租借し、日本は中国に福建省の不割譲を確約させた。
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- 後藤新平(ごとうしんぺい)
1857年 - 1929年
医師。官僚。政治家。
『戊戌夢物語』を著した高野長英の親戚。
1898年6月20日に台湾総督の児玉に補佐の民政局長として抜擢されると、経済改革とインフラ建設に辣腕をふるった。
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- 砂糖(さとう)
後藤新平ら台湾総督府は砂糖を製造する会社を設立させ、台湾産業の中心として保護した。
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- 製糖業(せいとうぎょう)
台湾は製糖業を中心に産業振興が進められた。
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- 大森房吉(おおもりふさきち)
1868年 - 1923年
東大教授。
1898年ごろに大森式地震計を考案する。
参照
大森式地震計
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- 憲政党(けんせいとう)
1898年 - 1900年
地租増徴に反対する二大政党、自由党と進歩党が合同して成立した政党。
衆議院の議席占有率は過半数を超えた。
伊藤博文首相から政権を譲り受け、日本最初の政党内閣が発足した。
前身の二大政党の内紛が激化したため、4ヶ月で分裂。
党名を継いだ星亨(ほしとおる)は後に立憲政友会に合流。
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- 第1次大隈重信内閣(だいいちじおおくましげのぶないかく)
1898年6月30日 - 1898年11月8日
大隈重信が第8代内閣総理大臣として任命された内閣。
憲政党を基盤として成立。
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- 第1次大隈重信内閣は憲政党を基盤とする(だいいちじおおくましげのぶないかくはけんせいとうをきばんとする)
第1次大隈重信内閣は憲政党を基盤とした。
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- 岡倉天心(おかくらてんしん)
1862年 - 1913年
1898年に伝統美術の美術団体である日本美術院を創立した。
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- 日本美術院(にほんびじゅついん)
1898年
7月に岡倉天心らが伝統美術の美術団体である日本美術院を創立した。
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- 共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)
第1次大隈重信内閣の文部大臣である尾崎行雄が1898年8月に「日本が共和政治になったら三井・三菱が大統領候補となるであろう」という内容の演説を行ったが、不敬であると指弾され、発言者の尾崎行雄は文部大臣を辞した事件のこと。
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- 横山源之助(よこやまげんのすけ)
1871年 - 1915年
ジャーナリスト。
『日本之下層社会』を著し、労働問題の研究家として著名な「横山源之助」は『内地雑居後之日本』を書き、内地雑居に警鐘を鳴らした。
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- 日本之下層社会(にほんのかそうしゃかい)
1899年
横山源之助の著書。
労働者の悲惨な状態について記した。
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- 第2次山県有朋内閣(だいにじやまがたありともないかく)
1898年11月8日 - 1900年10月19日
山県有朋が第9代内閣総理大臣として任命された内閣。
1899年、商人の営業、商行為その他商事について定めた商法を制定した。
1900年に治安警察法を制定した。
軍部大臣現役武官制を定めた。
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- 北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)
1899年
アイヌを救済する名目の法。
生活向上にはあまり成果がなく、同化政策としての面が強かった。
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- 綿花(めんか)
1899年時点の日本の最大の輸入品。
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- 軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)
1900年に法制化。
現役の大将・中将以外は陸・海軍大臣になれないという制度。
政党の力が軍部に及ぶのを防いだ。
年号の覚え方は「(現役の大将・中将以外が大臣に)行く(19)の無し(0)無し(0)軍部大臣現役武官制」です。
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- 日本興業銀行(にっぽんこうぎょうぎんこう)
1900年
3月設立。
重化学産業振興を担う特殊銀行。
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- 治安警察法(ちあんけいさつほう)
1900年3月公布。
労働運動の取り締まりを目的とした法令。
- 軍人・警察官・宗教家・教員・学生・女子・未成年者の政治結社加入を禁止
- 女子・未成年者の政談集会参加を禁止
- 集会に対する警察官の禁止・解散権の規定
翌年、この法令に基づき、日本最初の社会主義政党である「社会民主党」に対して、結成直後に解散を命じた。
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- 産業組合(さんぎょうくみあい)
1900年3月に公布された産業組合法によって設立された協同組合のこと。農村組合として組織されることが多く、農家経営を保護するための協同組合として機能した。
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- 義和団事件(ぎわだんじけん)
1900年6月
列強の中国分割への反感から『扶清滅洋』を唱える中国の秘密結社「義和団」が各国公使館を包囲した事件。
義和団の乱、北清事変ともいわれる。
日本を含む列国は連合軍を派遣してこれを鎮圧したが、ロシアは事件後も撤兵せずに満州を事実上占領し韓国に強い影響力を行使したため、日本の韓国権益にとって脅威となった。
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- 高峰譲吉(たかみねじょうきち)
1854年 - 1922年
1900年にアドレナリンを発見する。
消化薬タカジアスターゼの創製でも知られる。
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- 津田梅子が女子英学塾を開校する(つだうめこがじょしえいがくじゅくをかいこうする)
岩倉使節団に随行した津田梅子は、アメリカ留学から帰国後、1900年9月14日に女子英学塾(後の津田塾)を開校した。
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- 津田塾大学(つだじゅくだいがく)
岩倉使節団に随行した津田梅子が創立した学校。
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- 立憲政友会(りっけんせいゆうかい)
1900年9月15日 - 1940年7月
伊藤博文が元の自由党と自分の直系官僚を元に組織した政党。
初代総裁は伊藤博文。
財務健全化をめぐる内紛により短命政権となった。
伊藤博文は引き続き総裁を務めたが、山県有朋・桂太郎らの策動で枢密院議長に祭り上げられ、二代目党首には西園寺公望が就任した。
歴代の総裁の多くは首相を務めた。
三代目党首は原敬。
昭和15年(1940)の解党まで戦前の二大政党のひとつだった。
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- 第4次伊藤博文内閣(だいよじいとうひろぶみないかく)
1900年10月19日 - 1901年6月2日
伊藤博文が第10代内閣総理大臣に任命された内閣。
立憲政友会を基盤とする。
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- 新渡戸稲造(にとべいなぞう)
1862年 - 1933年
日本の教育者・思想家。
『武士道』を英文で発表して日本文化を欧米などに紹介したり、太平洋地域の友好促進を目的とした民間組織である太平洋問題調査会日本支部の理事長をつとめたりした。
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- 八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)
1897年に鉄鋼の国産化をめざして設立された官営の製鉄所。
1901年にはドイツの技術を導入して創業が開始された。
筑豊炭田(ちくほうたんでん)で採掘した石炭を燃料として用い、中国湖北省黄石市にある大冶鉄鉱(だいやてっこう)という鉄山から安価で大量に入手した鉄鉱石を原料として1901年2月5日から鉄鋼の生産を始めた。
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- 大冶(だいや)
中国の鉱業都市。
日本政府が中国の製鉄会社に借款を供与した見返りとして八幡製鉄所に鉄鉱石を安価で供給した。
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- 社会民主党(しゃかいみんしゅとう)
1901年
5月に安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、木下尚江らによって結成された日本最初の社会主義政党。
治安警察法に基づき、結成直後に解散させられた。
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- 安部磯雄(あべいそお)
1865年 - 1949年
社会主義者。
1901年に結成された社会民主党に創立者として参画したが、直後に解散させられた。
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- 幸徳秋水(こうとくしゅうすい)
1871年 - 1911年
ジャーナリスト。思想家。社会主義者。
1901年に結成された社会民主党に創立者として参画したが、直後に解散させられた。
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- 片山潜(かたやません)
1859年 - 1933年
労働運動家・社会主義者として活躍。
1901年に結成された社会民主党に創立者として参画したが、直後に解散させらた。
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- 木下尚江(きのしたなおえ)
1869年 - 1937年
キリスト教社会民主主義者。
社会民主党結成に参加し、普通選挙期成同盟会の結成や廃唱運動でも活躍。
日露戦争に反対し、小説『火の柱』を発表した。
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- 第1次桂太郎内閣(だいいちじかつらたろうないかく)
1901年6月2日 - 1906年1月7日
桂太郎が第11代内閣総理大臣として任命された内閣。
日英同盟を結んだ。
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- 桂園時代(けいえんじだい)
1901年から1913年の約10年間、桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当した時代のこと。
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- 北京議定書(ぺきんぎていしょ)
1901年9月
北京で調印された北清事変における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。
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- 足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)
1901年
渡良瀬川流域で発生した足尾銅山の鉱毒被害救済のため、矯風会が鉱毒地救済婦人会を設立した。
その数日後には、栃木県選出の衆議院議員である田中正造が辞職した上で天皇直訴を試みた。
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- 田中正造(たなかしょうぞう)
1841年 - 1913年
第1回衆議院議員総選挙で衆議院議員に選出された。
帝国議会で足尾銅山鉱毒事件を取り上げ、操業停止を迫った。
政府は鉱毒予防を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。
そこで田中は、1901年に議員を辞職して天皇に操業停止を内容とする直訴をこころみたが、果たせなかった。
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- 鉱毒調査会(こうどくちょうさかい)
足尾銅山鉱毒事件に対して政府は鉱毒調査会を設けて鉱毒予防を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。
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- 日英同盟(にちえいどうめい)
1902年
義和団の乱(義和団事件)を機にロシアが中国東北部を占領して勢力を拡大していたので、これに対抗するため第一次桂太郎内閣は、同じくロシアのアジア進出を警戒していたイギリスとの間で日英同盟を結び、ロシアとの開戦準備を進めた。
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- 日露協商論(にちろきょうしょうろん)
日英同盟を結ぶべきという桂太郎の主張とは別に、伊藤博文が主張した論。
ロシアの満州支配を日本が認める代わりに、韓国に対する日本の優越権をロシアに認めさせる「満韓交換」を外交で行おうとした政策のこと。
結局この案は採用されず、日英同盟が結ばれることとなった。
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- 国定教科書(こくていきょうかしょ)
1902年に教科書採用を巡る贈収賄事件が起き(教科書疑獄事件)、1903年から小学校では教科書は国定教科書制度となった。
この1903年からの国定教科書制度により、政府による国民の思想・教育に対する統制が強まった。
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- 対露同志会(たいろどうしかい)
1903年結成の対露強硬論を唱えた国家主義団体。
この時期、世論も主戦論が中心となっていった。
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- 長岡半太郎(ながおかはんたろう)
1865年 - 1950年
物理学者。
1903年12月に発表した土星型原子模型理論が特に有名。
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- 農商務省(のうしょうむしょう)
農林・商工行政のための中央官庁。
懸案となっていた工場法の基礎資料として1903年に『職工事情』を作成した。
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- 職工事情(しょっこうじじょう)
1903年
農商務省が、懸案となっていた工場法の基礎資料とするために調査してとりまとめた工場の労働状態調査報告書。
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- 内村鑑三・堺利彦・幸徳秋水が万朝報を辞める
日刊新聞「万朝報」を創刊した黒岩涙香は、日露戦争では最初は非戦論を唱えていたものの、のちに開戦論に転じた。
万朝報に記者として参加していた内村鑑三・堺利彦・幸徳秋水はこれに反発して1903年10月に万朝報を退社した。
同年、非戦論を訴えるために堺利彦と幸徳秋水は平民社を設立し『平民新聞』を発行した。
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- 平民社(へいみんしゃ)
1903年に万朝報を辞めた幸徳秋水と堺利彦が非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために結成した社会主義結社。
週刊新聞として『平民新聞』を発行した。
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- 平民新聞(へいみんしんぶん)
平民社が発行した週刊新聞。
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- 平民社を設立したのは堺利彦と幸徳秋水(へいみんしゃをせつりつしたのはさかいとしひことこうとくしゅうすい)
1903年
平民社を設立したのは堺利彦と幸徳秋水。
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- 菱田春草(ひしだしゅんそう)
1874年 - 1911年
日本画家。
橋本雅邦の弟子の一人。
西洋画の技法を取り入れた清新な画風に特色があり、「落葉」「黒き猫」などを描いた。
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- 日露戦争(にちろせんそう)
1904年2月8日 - 1905年9月5日
大日本帝国とロシア帝国との間で起こった戦争。
ロシアは南下政策で満州と朝鮮半島の利権を得たかったが、日本はロシアの脅威を防ぎたかった。
日本が勝利し、日本の朝鮮半島の権益確保も決まった。
年号の覚え方は「人(1)くれ(90)!死(4)んでもいい人を!兵士が足りない日露戦争」です。
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- 国債(こくさい)
国が発行する債権。
日露戦争の際には戦費を調達するため国内外から多額の国債を募った。
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- 増税(ぞうぜい)
日露戦争は、日清戦争とは比較にならない戦費を必要としたため、増税が行われた。
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- 旅順(りょじゅん)
日露戦争の激戦地。
日本は多大な人的損害を重ねつつ1905年1月には旅順を陥落させた。
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- 青木繁(あおきしげる)
1882年 - 1911年
洋画家。
明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、1904年夏に作成した代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。
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- 第一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)
1904年
日本は、日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置き、重要な外交案件は事前に日本政府と協議することを韓国に認めさせた。
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- 与謝野晶子(よさのあきこ)
1878年 - 1942年
歌人。
旅順包囲戦のさなかの1904年9月に雑誌『明星』に「君死にたまふことなかれ」という反戦詩を発表した。
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- 君死にたまふことなかれ(きみしにたまふことなかれ)
1904年
日露戦争中に与謝野晶子が発表した言葉。
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- バルチック艦隊(ばるちっくかんたい)
ロシアの艦隊。
1905年5月に日本海海戦で日本はロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。
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- タフト
1857年 - 1930年
アメリカの政治家。
米国特使として、1905年に桂太郎と桂・タフト協定を結んだ。
のちの第27代アメリカ合衆国大統領(1909年 - 1913年)。
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- 桂・タフト協定
1905年
7月、桂太郎と米国特使のタフトとの秘密覚書。
アメリカに、日本の韓国保護国化を承認させた。
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- ポーツマス条約(ぽーつますじょうやく)
1905年
9月5日に大日本帝国とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。
日本は北緯50度以南のサハリン(樺太)を領有することになったほか、長春以南の鉄道敷設権と付属鉱山の採掘権を得て、遼東半島は日本の租借地になった。
かつて三国干渉で日本が領有権を放棄した旅順・大連については、日本が租借権を得た。
このポーツマス条約ではロシアが清から権益を獲得した年から起算した有効期限が設けられており、早いものは1923年に期限満了を迎えることになっていたが、後の袁世凱政権に対する二十一カ条の要求により租借期間延長を認めさせた。
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- セオドア=ローズベルト
1858年 - 1919年
アメリカ合衆国第26代大統領(1901年 - 1909年)。
日露戦争にあたっては日本寄りの立場をとり自国内の都市ポーツマスを講和会議の開催都市として提供している。
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- ポーツマス
アメリカ合衆国ニューハンプシャー州にある都市。
日露戦争の講和会議が開かれた場所。
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- ポーツマス条約の時の日本全権は小村寿太郎(ポーツマスじょうやくのときのにほんぜんけんはこむらじゅたろう)
ポーツマス条約時の日本全権は小村寿太郎。
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- ウィッテ
1849年 - 1915年
ロシアの政治家。
ポーツマス条約時のロシア全権。
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- 北緯50度以南のサハリン(樺太)(ほくい50どいなんのさはりん(からふと))
日本は1905年のポーツマス条約によって北緯50度以南のサハリン(樺太)を領有することになった。
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- 長春(ちょうしゅん)
中華人民共和国吉林省に位置する。
日露戦争でロシアに勝利した日本は長春以南の東清鉄道支線に関する権益を獲得した。
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- 日比谷焼打ち事件(ひびややきうちじけん)
1905年
賠償金のない日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に不満を持った民衆が、9月5日に東京の日比谷公園で開催された講和反対国民大会で条約破棄を叫び暴動化した事件。
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- 日露戦争後の就学率(にちろせんそうごのしゅうがくりつ)
日露戦争後、義務教育の就学率は95%を上回った。
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- 夏目漱石(なつめそうせき)
1867年 - 1916年
小説家。評論家。英文学者。
代表作は1905年に発表した『吾輩ハ猫デアル』。
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- 第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく)
1905年
日本は韓国の外交権を奪い、漢城に統監府をおいた。
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- 統監府(とうかんふ)
1905年
日本は第二次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、韓国の首都漢城に統監府を置いた。
この機関は韓国の内政にも関与した。
初代統監は伊藤博文。
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- 初代韓国統監は伊藤博文(しょだいかんこくとうかんはいとうひろぶみ)
初代韓国統監は伊藤博文。
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- 漢城(かんじょう)
李氏朝鮮の首都。
統監府が置かれた。
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- 漢城の場所(かんじょうのばしょ)
ここです。
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- 第1次西園寺公望内閣(だいいちじさいおんじきんもちないかく)
1906年1月7日 - 1908年7月14日
西園寺公望が第12代内閣総理大臣として任命された内閣。
1906年に鉄道国有法を制定した。
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- 日本社会党(にほんしゃかいとう)
1906年
西園寺公望内閣の融和策の下で1月28日に堺利彦、片山潜らが結成した日本最初の合法社会主義政党。
平民新聞は機関紙となった。
政府はこれをいったん認めたが、後に解散を命じた。
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- 鉄道国有法(てつどうこくゆうほう)
1906年
3月公布。
軍事的な配慮もあり、第1次西園寺公望内閣は主要幹線の鉄道を国有化した。
鉄道国有法案の提出時、全国の幹線鉄道は複数の鉄道会社が経営していた。
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- 関東都督府(かんとうととくふ)
1906年
9月に旅順に設置された、関東州の管轄と南満州鉄道株式会社の保護・監督に当たる機関。
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- 旅順の場所(りょじゅんのばしょ)
遼東半島の最西部(突端部)。
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- 南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ)
1906年
長春以南の東清鉄道支線と付属する権利を経営するために11月に設立された半官半民の国策会社。
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- 後藤新平が南満州鉄道初代総裁に就任(ごとうしんぺいがみなみまんしゅうてつどうしょだいそうさいにしゅうにん)
1906年に後藤新平が南満州鉄道初代総裁に就任。
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- 製鉄所(せいてつじょ)
南満州鉄道株式会社は鉄道経営だけでなく、鞍山に製鉄所を設立するなど経営を多角化した。
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- 日本人移民排斥運動(にほんじんいみんはいせきうんどう)
日露戦争後の1906年、アメリカのカリフォルニアを中心に日本人移民排斥運動が起きた。またこの時期、日本の南満州での権益独占をめぐって日米関係は悪化していた。
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- ハーグ密使事件(はーぐみっしじけん)
1907年
大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約によって奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも具体的成果は得られなかった事件。事件後、伊藤博文によって高宗は退位させられた。
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- 第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)
1907年
日本は、韓国の内政権をその手に収めた。
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- 大隈重信が早稲田大学の初代総長になる(おおくましげのぶがわせだだいがくのしょだいそうちょうになる)
1907年
大隈重信が早稲田大学の初代総長になる(~1922年)。
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- 荻原守衛(おぎわらもりえ)
1879年 - 1910年
長野県出身の彫刻家。
1901年に洋画研究のために米・仏に渡り、ロダンの「考える人」に感銘して彫刻に転じた。
1908年に帰国。
西洋風の彫塑を発展させた。
代表作に「抗夫」「女」。
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- 第2次桂太郎内閣(だいにじかつらたろうないかく)
1908年7月14日 - 1911年8月30日
桂太郎が第13代内閣総理大臣として任命された内閣。
1911年に工場法を制定した。
大逆事件を契機に社会主義者を弾圧した。
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- 戊申詔書(ぼしんしょうしょ)
1908年
日露戦後の農村の疲弊に対し、勤労や節約などを説く「戊申詔書」が発布された。
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- 東洋拓殖会社(とうようたくしょくがいしゃ)
1908年
日韓両政府が朝鮮の土地開発を目的に朝鮮に設立した国策会社。
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- 地方改良運動(ちほうかいりょううんどう)
1909年
日露戦後に荒廃した地方社会と市町村の改良・再建を目指す官製運動。戊申詔書をきっかけに内務省を中心として本格的に遂行された。
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- 日本の生糸輸出量世界一位(にほんのきいとゆしゅつりょうせかいいちい)
1909年に日本の生糸の輸出量が世界一位になった。
最大の輸出先はアメリカ。
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- 安重根(あんじゅうこん)
1879年 - 1910年
朝鮮の独立運動家。
1909年に日本の朝鮮の支配を象徴する韓国統監府の伊藤博文を暗殺した。
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- 伊藤博文暗殺事件(いとうひろぶみあんさつじけん)
1909年
初代韓国統監をつとめた伊藤博文は10月にハルビン駅で安重根に暗殺された。
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- 義兵運動(ぎへいうんどう)
日清戦争後から韓国併合頃まで朝鮮各地で繰り広げられた反日武装闘争。
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- 韓国併合条約(かんこくへいごうじょうやく)
1910年
日本は1910年に韓国併合条約を結び韓国を植民地化した。
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- 朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)
1910年の韓国併合条約に基づき統治機関としての朝鮮総督府を設置した。
統監府を前身とする。
初代朝鮮総督は、後に内閣総理大臣にもなる寺内正毅(てらうちまさたけ)が就任した。
-
- 初代朝鮮総督は寺内正毅(しょだいちょうせんそうとくはてらうちまさたけ)
1910年の韓国併合条約に基づき統治機関としての朝鮮総督府を設置したが、初代朝鮮総督には、後に内閣総理大臣にもなる寺内正毅(てらうちまさたけ)が就任した。
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- 鈴木梅太郎(すずきうめたろう)
1874年 - 1943年
1910年に未知の栄養素を見つけオリザニンとして発表。
このオリザニンは現在で言われるビタミンB1のこと。
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- 秦佐八郎(はたさはちろう)
1873年 - 1938年
1910年に化学療法剤のサルバルサンを創製した。
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- 永井荷風(ながいかふう)
1879年 - 1959年
小説家。
1910年に雑誌『三田文学』を創刊し、編集主幹として関わった。
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- 大逆事件(たいぎゃくじけん)
1910年
明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や自由主義者らを大逆罪で起訴し、翌年に幸徳秋水らを処刑した事件。
年号の覚え方は「行く(19)ぞ!父(10)さん!大逆事件!」です。
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- 大逆事件で幸徳秋水が処刑される(たいぎゃくじけんでこうとくしゅうすいがしょけいされる)
大逆事件(幸徳事件)に関連し、幸徳秋水は事件への関与が薄いにもかかわらず、処刑された。
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- 特高(とっこう)
特別高等警察の略。
大逆事件を機に1911年に警視庁内に設置された日本の政治警察。
思想の取り締まりにあたった。
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- 平塚らいてう(ひらつからいちょう)
1886年 - 1971年
女性解放運動家。
1911年に雑誌に「元始女性は太陽であった」という言葉で始まる文章を発表した。
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- 元始女性は太陽であった(げんしじょせいはたいようであった)
1911年
平塚らいてうが雑誌に発表した言葉。
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- 工場法(こうじょうほう)
1911年成立。
工場労働者の保護を目的とした法。
ただし、内容に不満を持つ財界の反対を受け、施行は5年後の1916年。
当初、工場法の適用対象は、常時15人以上の労働者が使用されている工場に限られた(1923年(大正12年)に改正されて10人となった)。
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- 工場法の適用は15人以上(こうじょうほうのてきようはじゅうごにんいじょう)
工場法の適用対象は、当初は常時15人以上の労働者が使用されている工場に限られた。
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- 小村寿太郎(こむらじゅたろう)
1855年 - 1911年
外交官。政治家。外務大臣。
第2次桂太郎内閣で外相に就任すると不平等条約の撤廃に尽力。
関税自主権の完全な回復が、1911年に小村寿太郎外相のもとで達成された。
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- 関税自主権の完全な回復
1911年
第2次桂太郎内閣で外相に就任した小村寿太郎のもとで関税自主権の完全な回復が達成された。
年号の覚え方は「センキュー(19)!人々(11)!関税自主権完全回復!」です。サンキューをセンキューというところが通ですね。
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- 野口英世(のぐちひでよ)
1876年 - 1928年
医師。細菌学者。
黄熱病や梅毒の研究で知られる。
ロックフェラー研究所の所員として活躍した後、アフリカで黄熱病の研究中に病死した。
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- 孫文(そんぶん)
1866年 - 1925年
中国の政治家・革命家。1911年から1912年にかけて清で発生した辛亥革命の最中、中華民国臨時政府の臨時大総統となるが、その後、軍閥の袁世凱が台頭し、孫文は辞任、袁世凱が二代目臨時大総統となる。
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- 中華民国(ちゅうかみんこく)
1912年~
1911年12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、1912年2月12日に清国最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡した。中華民国は1912年1月1日に建国宣言をした。
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- 袁世凱(えんせいがい)
1859年 - 1916年
中国の軍人・政治家。第2代中華民国臨時大総統。
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- 第2次西園寺公望内閣(だいにじさいおんじきんもちないかく)
1911年8月30日 - 1912年12月21日
西園寺公望が第14代内閣総理大臣として任命された内閣。
2個師団増設問題で総辞職した。
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- オリンピック日本初参加(おりんぴっくにほんはつさんか)
1912年にストックホルムで行われた第五回オリンピックに日本は初めて参加した。
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- ハワイ
明治時代、ハワイは日本の主要な海外移民先の一つであった。