古墳時代【高校:日本史】 3世紀中頃 - 7世紀
絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。
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- 古墳時代(こふんじだい)
3世紀中頃 - 7世紀頃
各地の有力な首長たちが大規模な古墳を営んだ3世紀中頃から7世紀頃までを古墳時代といいます。
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- 埴輪(はにわ)
古墳の上に並べられ、墓域や葬送儀礼を示す。
船型埴輪なども出土しており、出土した船材の検討により、弥生時代以降には大型船が用いられるようになったことがわかる。
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- ヤマト政権(ヤマトせいけん)
大和地方を中心とする豪族の連合政権。
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- 大王(おおきみ)
当時のヤマト政権は大王を盟主とする畿内の有力豪族によって構成されていた。
大王は政権に服属した地方豪族に国造の地位を与え、同時に大王に対する多くの奉仕を要求して、倭国における支配権をますます拡大・強化していった。
古墳時代中期の5世紀には、大王の巨大墓が作られた。
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- 氏姓制度(しせいせいど)
大王が「姓(かばね)」を与えた「氏(うじ)」を構成単位とする支配体制の仕組み。
「氏(うじ)」とは同じ血縁の豪族一族の事。
「姓(かばね)」はそれぞれの「氏」に対して大王が与えた、地位・身分を示す称号。
臣や連などの姓をもつ畿内の有力な豪族層は政務に参加し、これに次ぐ諸氏は伴造として職務を分担した。
ヤマト政権に服属した地方豪族層には君や直などの姓が与えられた。
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- 国造(くにのみやつこ)
ヤマト政権に服属した地方豪族がなった、ヤマト政権の地方官。
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- 伴造(とものみやつこ)
職業集団である伴や品部を率いて朝廷に奉仕した首長。
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- 大神神社(おおみわじんじゃ)
円錐形の山である三輪山を本殿の代わりとする、日本最古の神社。
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- 纒向遺跡(まきむくいせき)
3世紀から4世紀にかけて多くの人々が集住していたとみられる三輪山の西麓にある大規模遺跡。
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- 沖ノ島(おきのしま)
『海の正倉院』と呼ばれる、福岡県の孤島。
海上交通の安全を祈る祭祀が行われ、神々の降臨する岩座が設けられた。
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- 宗像大社(むなかたたいしゃ)
航海の安全を祈る場である絶海の孤島、沖ノ島を祭祀の対象とする神社。
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- 屯倉(みやけ)
ヤマト政権の直轄地のこと。
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- 田荘(たどころ)
豪族の私有地のこと。
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- 名代・子代(なしろ・こしろ)
大王やその一族に奉仕する集団。
各地に設定された。
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- 部曲(かきべ)
豪族の私有民のこと。
この時代、自由な身分ではなく誰かの所有物という「人間」がいた。
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- 氏(うじ)
同じ血族の集団。
ヤマト政権を構成する豪族らは、氏として組織化された。
部曲は氏に隷属した。
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- 氏上(うじのかみ)
氏の首長。
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- 采女(うねめ)
天皇・皇后の側に仕え、身の回りの雑事をする女官。
ヤマト政権は服属する地方豪族に采女を出仕させた。
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- 盟神探湯(くかたち)
ヤマト政権の時代にみられた呪術的風習。
熱湯に手を入れさせ手がただれるかどうかで真偽を判断する。
公式の裁判として行われた。
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- 太占(ふとまに)
占いの一種。
鹿の骨を焼いて吉凶を占った。
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- 古墳時代の住居(こふんじだいのじゅうきょ)
古墳時代の住居には、竪穴住居や平地住居、高床住居が見られた。
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- 古墳時代の女性の服装(こふんじだいのじょせいのふくそう)
女性は、スカート風の衣服を身に着けていた。
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- 美豆良(みずら)
古墳時代、男性は美豆良と呼ばれる髪形をしていた。
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- 高句麗(こうくり)
前37年 - 668年
中国東北部からおこった国。
朝鮮半島北部に進攻して領土を拡大し、313年には中国の植民地であった楽浪郡を滅ぼした。
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- 高句麗が楽浪郡を滅ぼす(こうくりがらくろうぐんをほろぼす)
313年
高句麗は、朝鮮半島北部にあり中国の出先機関であった楽浪郡を滅ぼした。
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- 「漢書」地理志(かんじょちりし)
『楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。』というように、日本列島が百余国に分かれ、朝鮮半島の楽浪郡に使者を送っていた様子が描かれている中国の史料。
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- 弁韓(べんかん)
朝鮮半島南部にあった12国からなる部族国家。
のちの加耶。
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- 加耶(かや)
3世紀 - 6世紀後半
朝鮮半島南部にあった小国連合。
伽耶とも表記される。加羅(から)とも呼ばれる。
倭国(ヤマト政権)は鉄資源を確保するために加耶と密接な関係を維持した。
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- 任那(みまな)
『加耶(加羅)』諸国の地域は日本書紀では日本の植民地のように書かれており「任那」と称されている。
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- 鉄資源(てつしげん)
倭国(ヤマト政権)は鉄資源を確保するために加耶と密接な関係を維持した。
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- 腕輪型石製品(うでわがたせきせいひん)
古墳時代前期の古墳によくみられる副葬品。
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- 好太王(こうたいおう)
374年 - 412年
高句麗の第19代の王。
衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。
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- 好太王碑(こうたいおうひ)
中国吉林省集安市に残る好太王の業績を讃えた石碑。
南進策を進める高句麗に対して、倭国は加耶と百済とともに戦った。
好太王碑には倭国との交戦の記録が刻まれている。
記録には『辛卯』の年から倭国が朝鮮に進攻したと書かれているが、その西暦年は391年。
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- 百済(くだら)
4世紀前半 - 660年
古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。
6世紀初期において北の高句麗の領土拡張政策によって領土の北半分を失ったため南遷したが、やがて復興して加耶の西部を併合した。
日本に仏教と儒教を伝えた。
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- 騎馬(きば)
騎馬の風習がなかった倭国へは、朝鮮半島での戦闘を通じて軍馬の飼育や馬具の生産技術が移入された。
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- 漢字(かんじ)
漢字文化が渡来人によって倭国に伝えられた。
政治・外交用の文書・記録の作成のため漢字は倭国において積極的に導入された。
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- 新羅(しらぎ)
前57年 - 953年
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
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- 南朝の宋(なんちょうのそう)
420年 - 479年
倭の五王が使者を派遣した中国の宋という国。
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- 『宋書』倭国伝(そうじょわこくでん)
中国の歴史書。
5世紀に倭国の王たち(倭の五王)が、中国の南朝に対し使者を派遣していたことが記述されている。
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- 倭の五王(わのごおう)
413年 - 478年
朝鮮半島での立場を有利にするため、倭の五人の王が中国の南朝へ朝貢した。
倭の五王の内「武」は雄略天皇のことだと考えられている。
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- 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
?年 - ?年
第21代天皇(在位:? - ?)。
478年に倭王武(=雄略天皇)として中国の皇帝に上表文を提出した。
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- 倭王武(わおうぶ)
『宋書』倭国伝に見える倭王武は雄略天皇のことだと考えられている。
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- 蘇我氏(そがうじ)
雄略天皇の頃から渡来人と結んで朝廷の財政権を握った。
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- カマド
5世紀以降、住居にカマドがともなうようになる。
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- 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)
古墳時代中期の極めて巨大な古墳。
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- 古墳時代中期の副葬品(こふんじだいちゅうきのふくそうひん)
古墳時代中期には、古墳の副葬品として鉄製の武器・武具や馬具が増えた。
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- 須恵器(すえき)
主に祭祀や古墳の副葬品に用いられた陶質土器。
製作技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられた。
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- 須恵器は祭祀や副葬品に用いられる
須恵器は主に祭祀や古墳の副葬品に用いられた。
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- 土師器(はじき)
弥生土器の製法を受け継ぐ土器。
主に日用具とした。
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- 土師器は日用具として用いられる
土師器は主に日用具とした。
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- 埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)
埼玉県にある古墳群。5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられている。中でも稲荷山古墳が有名。
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- 稲荷山古墳(いなりやまこふん)
5世紀の古墳。
埼玉古墳群を構成する古墳のうちの一つ。稲荷山古墳出土鉄剣が出土したことで知られる。
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- 稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)
稲荷山古墳で出土した漢字で銘文が記された鉄剣。
「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という文字が見られる。ワカタケル大王とは雄略天皇のことである。
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- 江田船山古墳(えたふなやまこふん)
熊本県にある前方後円墳。75文字の銘を持つ太刀が出土したことで有名で、銘に「獲□□□鹵大王」とあり、稲荷山古墳出土鉄剣の銘の情報と合わせてワカタケル大王のことと分かった。ワカタケル大王とは雄略天皇のことである。
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- 群集墳(ぐんしゅうふん)
小さな円墳の集まりのこと。
古墳時代後期には小規模な古墳の爆発的な増加が見られ、山間や小島にまで群集墳が数多く営まれるようになっていった。
有力農民層が葬られた。
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- 百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)
大阪府堺市にのこる古墳群。
古墳群の中の大仙陵古墳は日本列島で最大規模の前方後円墳で、延約680万人が約16年の歳月をかけて築造されたと推定されている。
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- 継体天皇(けいたいてんのう)
450年? - 531年?
第26代天皇(在位:507年? - 531年?)。
継体天皇の治世の時に百済からの五経博士の来日、「任那四県」の割譲、筑柴国造磐井の乱があった。
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- 五経博士(ごきょうはかせ)
儒教の五つの経典、すなわち「易経」「書経」「詩経」「礼経」「春秋」の五経の知識がある学者の事を五経博士という。
継体天皇の頃に百済より日本に来て儒教を日本に伝えた。
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- 継体天皇の時に百済から来た五経博士が日本に儒教を伝える
継体天皇の治世の時に百済から来た五経博士が日本に儒教を伝えた。
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- 任那四県(みまなよんけん)
加耶西部の4つの地域。
512年に大伴金村がこの地を百済に割譲したが、これが外交政策の失敗として大伴金村は失脚した。
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- 大伴金村(おおとものかなむら)
? -?
5世紀末から6世紀前半の豪族。
任那四県(加耶の西部)が百済に併合されたことは倭国のヤマト政権にとって痛手であり、大伴金村は外交政策の失敗の責任を追求されて失脚した。
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- 筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)
? - 528年?
古墳時代に九州地方で力を持った豪族。
新羅と結んで九州で大規模な反乱を起こした。
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- 磐井の乱(いわいのらん)
527年
新羅と結んだ筑紫国造磐井が、大規模な反乱を起こしたが、翌528年11月に物部麁鹿火によって鎮圧された。
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- 物部麁鹿火(もののべのあらかい)
? - 536年
豪族。
磐井の乱を鎮圧した。
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- 岩戸山古墳(いわとやまこふん)
福岡県にある筑紫国造磐井の墓とされる古墳。
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- 欽明天皇(きんめいてんのう)
510年? - 571年?
第29代天皇(在位539年? - 571年?)。
この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
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- 欽明天皇の時に百済から日本に仏教が伝わる
百済の聖明王から欽明天皇へ仏像などがもたらされ、日本に仏教が伝来した。
その年は『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』では538年、『日本書紀』では552年とされる。
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- 蘇我稲目(そがのいなめ)
? - 570年?
欽明天皇の大臣。
この時代に仏教の公的伝来があり、蘇我稲目は崇仏派として積極的に仏教を受容しようとしたが、物部尾輿が排仏派の中心として反対し、両者の対立は、それぞれの子の代にまでひきつがれた。
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- 物部尾輿(もののべのおこし)
?年 - ?年
この時代に仏教の公的伝来があり、物部尾輿は排仏派の中心として、崇仏派の蘇我稲目と対立した。
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- 黒井峯遺跡(くろいみねいせき)
古墳時代後期の遺跡。
榛名山の噴火により理没したため、当時のムラの様子をよく残している。
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- 「旧辞」(きゅうじ)
日本古代の口承された神話・伝説を記録したもの。「古事記」「日本書紀」編纂の資料とされた。現在に伝わっていない。
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- 「帝紀」(ていき)
天皇の系譜を記録したもの。「古事記」「日本書紀」編纂の資料とされた。現在に伝わっていない。
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- 八角墳(はっかくふん)
大王の古墳は前方後円墳から、その後八角墳に変化した。