鎌倉時代【高校:日本史】 1185年頃 - 1333年
絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。
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- 鎌倉時代(かまくらじだい)
1185年頃 - 1333年
鎌倉幕府成立から幕府滅亡までの時代のこと。
京と鎌倉の往来が盛んとなり『十六夜日記』などの紀行文が書かれた。
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- 宋との正式な国交は開かれなかった(そうとのせいしきなこっこうはひらかれなかった)
鎌倉幕府のもとでは、宋との正式な国交は開かれなかった。
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- 琵琶法師(びわほうし)
琵琶をまちなかで弾く盲目の僧のこと。平安時代中期から存在する。
平氏の興亡を描いた『平家物語』が、琵琶法師により平曲として語られた。
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- 平家物語(へいけものがたり)
琵琶法師が平氏の栄枯盛衰を語り継いだ軍記物語。
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- 興福寺(こうふくじ)
藤原氏の氏寺。
当時、大和国の守護権を実質的に担い、南都で最も勢力のあった寺院。
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- 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
源頼義が奥州平定後に石清水八幡宮を勧請し、その後源頼朝が現在の地に移し、鎌倉の都市計画の中核となった神社。
参考
鶴岡八幡宮
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- 公文所(くもんじょ)
1184年設置。
公文(公文書)の管理を行った組織。
のちの政所。
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- 座(ざ)
鎌倉時代の京都では、同業者の団体である座が結成されていた。
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- 有職故実(ゆうそくこじつ)
鎌倉時代には、公家の間で朝廷の儀式・先例を研究する有職故実が盛んになった。
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- 九条兼実(くじょうかねざね)
1149年 - 1207年
頼朝支持の公家。
日記『玉葉』で知られる。
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- 玉葉(ぎょくよう)
九条兼実の日記。
鎌倉初期を知ることが出来る史料。
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- 守護(しゅご)
1185年
源頼朝が国ごとに置き、警察・軍事の役割や地頭の監督をはたさせた役職。
当初は「惣追捕使」や「国地頭」とも呼ばれたが、後に守護に統一された。
守護の権限のうちもっとも重要な三つを大犯三カ条(たいぼんさんかじょう)と言う。
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- 惣追捕使(そうついぶし)
「守護」は当初、「惣追捕使」とも呼ばれていた。
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- 大犯三カ条(たいぼんさんかじょう)
「大番催促」「謀反人の逮捕」「殺害人の逮捕」という平和時の守護の職務を規定したもの。
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- 大番催促(おおばんさいそく)
「天皇や院の御所」や京都市中を警護する番役のことを『京都大番役』というが、それを召集・催促する権限のこと。
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- 地頭(じとう)
1185年
西国の平氏や謀反人の没収地に設置され、年貢の徴収、治安維持などを行った。
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- 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)
1087年 - 1189年
陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。金や馬などの交易で繁栄していたが、1189年に源頼朝に滅ぼされた。
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- 源頼朝(みなもとのよりとも)
1147年 - 1199年
1192年に鎌倉幕府の初代征夷大将軍(在職:1192年 - 1199年)に任じられた。
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- 関東御領(かんとうごりょう)
平氏から没収した荘園である平家没官領を含む、鎌倉殿・将軍が支配した荘園。
鎌倉幕府の経済基盤となった。
承久の乱後には、その際の没収地も追加された。
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- 二毛作(にもうさく)
鎌倉時代に始まった、米の裏作に麦を作るような、一年にひとつの耕地で二種類の作物を作る耕作方法。畿内や西国を中心に二毛作が広まった。
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- 商品作物(しょうひんさくもつ)
桑(くわ)や漆(うるし)、茶などのように原料にしたり加工して売り物にする作物のこと。
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- 市場(いちば)
定期的に人が集まり商いを行う場所。
鎌倉時代、荘官・地頭は、農民から収納した米穀を、市場で銭貨や特産物などと交換した。
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- 為替(かわせ)
現金以外の方法で金銭を決済する方法の総称。
鎌倉・室町時代には商業・流通が高度に発達し、遠隔地間の決済には、商人が発行した為替がしばしば用いられた。
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- 御家人(ごけにん)
源頼朝に味方した武士たちに与えられた身分。
将軍と主従関係を結んだ。
鎌倉番役や京都大番役などをつとめ、奉公した。
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- 御恩(ごおん)
将軍から活躍した御家人へ新しい領地を与えたり、その領地を保護したりすること。
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- 奉公(ほうこう)
御家人が将軍に忠誠を誓い、戦があれば「いざ鎌倉」と将軍のために戦うこと。
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- 封建制度(ほうけんせいど)
将軍と御家人が御恩と奉公の関係で結ばれている制度。
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- 鎌倉番役(かまくらばんやく)
鎌倉の将軍御所の警備する番役の御家人のこと。
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- 京都大番役(きょうとおおばんやく)
天皇・院の御所や京都市中を警護する番役の御家人のこと。
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- 武家造(ぶけづくり)
鎌倉時代の御家人達が住んでいた、周囲に掘や土塁をめぐらせた板葺きの簡素な住居のつくりの事。
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- 大田文(おおたぶみ)
鎌倉幕府が作成させた、国単位の土地台帳。
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- 草木灰(そうもくばい)
鎌倉期に普及した肥料。
日本の土壌は酸性傾向があるが、この肥料には中和作用がある。
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- 門田(かどた)
湧水や小河川などの水利上の要点に設けられた地頭や有力名主の屋敷に隣接する有利な耕地に存在する、屋敷の主の直営田。
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- 法然が『選択本願念仏集』を著す(ほうねんが『せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』をあらわす)
法然が1198年に書いた主著『選択本願念仏集』で、「阿弥陀仏の本願に応える唯一の往生行は念仏であって、他の修行は全部無駄」とまで論じた――ので、他の寺からめっちゃ嫌われた。
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- 栄西(えいさい)
1141年 - 1215年
僧。
日本における臨済宗の開祖。
中国に2度渡り、日本に最新の禅宗を伝えた。
1198年に書いた著書『興禅護国論』で、自らの没後50年がたつと、中国風の禅宗が興隆すると予言した。
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- 臨済宗(りんざいしゅう)
元々は中国の宗教。日本においては栄西が開祖。禅宗。鎌倉仏教の一つ。
幕府の保護を受けて隆盛となり、北条時頼は南宋から渡来した蘭渓道隆を招いて建長寺を建立した。
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- 興禅護国論(こうぜんごこくろん)
1198年
栄西の書。
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- 源頼家(みなもとのよりいえ)
1182年 - 1204年
鎌倉幕府第2代征夷大将軍(在職:1202年 - 1203年)。
暗殺された。
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- 建仁寺(けんにんじ)
1202年
栄西が創建したお寺。
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- 執権(しっけん)
鎌倉時代、将軍の補佐として政治を行った役職のこと。
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- 北条氏(ほうじょうし)
執権の役職を独占した一族。
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- 北条時政(ほうじょうときまさ)
1138年 - 1215年
鎌倉幕府の初代執権(在職:1203年 - 1205年)。
北条政子の父。
北条義時の父。
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- 北条政子(ほうじょうまさこ)
1157年 - 1225年
こんにちは。政子です。源頼朝の妻で、頼朝の死後、実権を握り尼将軍と呼ばれました。
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- 執権政治(しっけんせいじ)
源頼朝の死後、北条氏が執権の役職を独占して将軍に代わって行った政治。
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- 似絵(にせえ)
人物などの形態・個性をよくとらえた描法。
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- 藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)
1142年 - 1205年
貴族・歌人・画家。
似絵(にせえ)の名手。
鎌倉時代、仏像だけでなく肖像画においても、人物を写実的に描く似絵が多く制作された。
『伝源頼朝像』は藤原隆信の作とされる。
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- 伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)
藤原隆信の作とされる似絵。
ただし、この人物は源頼朝ではないという説も近年出ている。
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- 解脱(げだつ)
1155年 - 1213年
法相宗の僧。
戒律の復興に努めた。
貞慶(じょうけい)とも呼ばれる。
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- 法然が土佐へ流罪となる(ほうねんがとさへるざいとなる)
後鳥羽上皇の女房が法然門下の念仏法会に参加した後に出家したことで怒りを買い、法然は1207年に土佐へ流罪となった。
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- 親鸞(しんらん)
1173年 - 1263年
僧。
法然の弟子。
1207年に師匠の法然は土佐へ流罪になったけど、弟子の私は越後へ流罪になりました。
後鳥羽上皇の弾圧に反発して「半僧半俗」の立場を表明。
「念仏・往生の大事なことは自分の罪障を自覚することだよ」って主張し、「悪人正機」説を唱えた。
浄土真宗の宗祖。
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- 『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)
親鸞の著。
浄土真宗の聖典。
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- 明恵(みょうえ)
1173年 - 1232年
華厳宗の僧。
東大寺の復興に尽力し、栂尾の高山寺を再興した。
栄西とも親しかった。
戒律の復興に努めた。
1212年に書いた『摧邪輪』(ざいじゃりん)で法然の『選択本願念仏集』を批判した。
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- 鴨長明(かものちょうめい)
1155年 - 1216年
歌人。随筆家。
1212年に「方丈記」を書いたことで有名。
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- 方丈記(ほうじょうき)
1212年成立。
鴨長明が書いた随筆。
日本三大随筆の一つ。
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- 源実朝(みなもとのさねとも)
1192年 - 1219年
鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
1213年ごろに『金槐和歌集』という歌集を作る。1219年に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
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- 金槐和歌集(きんかいわかしゅう)
1213年頃設立したとされる源実朝の歌集。
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- 北条義時(ほうじょうよしとき)
1163年 - 1224年
北条時政の子。
鎌倉幕府第二代執権(在職:1205年 - 1224年)。
1213年に侍所の長官和田義盛を滅ぼし、その後北条義時が政所と侍所の長官を兼務して執権の地位を固めた。
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- 和田義盛(わだよしもり)
1147年 - 1213年
武将。御家人。初代侍所別当。
1213年に北条義時に滅ぼされた。
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- 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
1180年 - 1239年
第82代天皇(在位1183年 - 1198年)。
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- 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
1180年 - 1239年
後鳥羽天皇は1198年から上皇となり院政を行う(1198年 - 1221年)。
1205年に藤原定家に『新古今和歌集』を作成させる。
1221年に承久の乱で北条義時と争ったが、敗れて隠岐へ流された。
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- 藤原定家(ふじわらのさだいえ)
1162年 - 1241年
公家・歌人。
「ふじわらのていか」とも言われる。後鳥羽上皇の命令により、新古今和歌集を作成した。
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- 新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
1205年成立。
後鳥羽上皇の命令により藤原定家が中心になって集めた和歌集。
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- チンギス=ハン
1167年頃 - 1227年
モンゴルを中心に巨大な大帝国を建設した人。
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- 慈円(じえん)
1155年 - 1225年
九条家出身。天台座主をつとめた。
『愚管抄』を著したことで有名。
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- 愚管抄(ぐかんしょう)
1220年
承久の乱の直前に成立した史論書。
著者は慈円。
『道理』の変遷を軸として著した歴史書。
愚管抄では保元の乱から武者の世になったと書かれている。
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- 道理(どうり)
『愚管抄』で通底している観念。
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- 1220年
慈円が『愚管抄』を著したのは1220年。
覚え方は「人(1)つつ(22)が無く(0)読む『愚管抄』」です。
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- 保元の乱(ほうげんのらん)
1156年
後白河天皇と崇徳上皇が争い、後白河天皇が勝利した戦い。
『愚管抄』では保元の乱から武者の世になったという内容が記されている。
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- 承久の乱(じょうきゅうのらん)
1221年
後鳥羽上皇が執権北条義時追討の挙兵をしたが、幕府軍の圧勝に終わり、北条義時が天下の権を執った。
これにより朝廷と幕府の二元支配の状況が変わり、幕府が優位に立ち執権政治の確立をもたらした。
後鳥羽上皇は隠岐に流され、1239年に同地で崩御した。
年号の覚え方は「何日(いつ)(12)潰(つい)(21)えた、後鳥羽の希望。承久の乱」です。
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- 後鳥羽上皇が隠岐に流される(ごとばじょうこうがおきにながされる)
後鳥羽上皇は承久の乱に敗れて隠岐に流された。
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- 隠岐(おき)
後鳥羽上皇が流された場所。
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- 隠岐の場所(おきのばしょ)
現在の島根県隠岐島。
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- 六波羅探題(ろくはらたんだい)
1221年
承久の乱の後、鎌倉幕府が朝廷の監視や西国御家人の統轄などを目的に設置した機関。
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- 北条泰時(ほうじょうやすとき)
1183年 - 1242年
北条義時の子。
初代六波羅探題。
承久の乱では北条時房とともに幕府軍の主将として活躍。
六波羅探題北方の初代となり、南方の北条時房とともに頑張った。
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- 北条時房(ほうじょうときふさ)
1175年 - 1240年
北条義時の弟。
初代六波羅探題。
承久の乱では北条泰時とともに幕府軍の主将として活躍。
六波羅探題南方の初代となり、北方の北条泰時とともに頑張った。
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- 新補地頭(しんぽじとう)
幕府は承久の乱以降、全国で3000余ヵ所の土地を反対勢力から没収し、戦功のあった御家人を新補地頭として任命した。
新補地頭は、従来の地頭(本補地頭)と収益が異なり、「新補率法」に従った。
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- 新補率法(しんぽりっぽう)
新補地頭の収益規定。
11町につき1町の給田、段別5升の加徴米、山野河海からの収益の半分などが新補地頭に与えられた。
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- 5升(ごしょう)
新補率法では、11町につき1町の給田、段別5升の加徴米、山野河海からの収益の半分などが新補地頭に与えられた。
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- 幕府は承久の乱以降全国で3000余ヵ所の土地を反対勢力から没収した(ばくふはじょうきゅうのらんいこうぜんこくで3000よかしょのとちをはんたいせいりょくからぼっしゅうした)
幕府は承久の乱以降、全国で3000余ヵ所の土地を反対勢力から没収し、それらに新補地頭を任命していった。
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- 運慶(うんけい)
? - 1224年
仏師。
金剛力士像を快慶と共に作ったので有名。
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- 快慶(かいけい)
生没年不詳
仏師。
金剛力士像を運慶と共に作ったので有名。
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- 金剛力士像(こんごうりきしぞう)
運慶と快慶が東大寺の南大門に作成した像。
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- 東大寺(とうだいじ)
運慶と快慶が「東大寺」の南大門に作成した金剛力士像が有名。奈良の大仏でも有名。東大寺を覚えてる?奈良時代に聖武天皇が国分寺の中心をなす「総国分寺」として建立した寺だよ。
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- 空也上人像(くうやしょうにんぞう)
鎌倉時代には、康勝の作とされる六波羅蜜寺蔵の空也上人像など写実的な彫刻が作られた。
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- 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
運慶の子康勝の手による鎌倉期肖像彫刻の代表作『空也上人像』や、平清盛や運慶の肖像彫刻を伝える寺院。
参考
六波羅蜜寺
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- 北条泰時が執権になる(ほうじょうやすときがしっけんになる)
1183年 - 1242年
鎌倉幕府第三代執権(在職:1224年 - 1242年)。
御成敗式目を定めた。
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- 北条時房が連署になる(ほうじょうときふさがれんしょになる)
1225年
北条時房は初代の連署となり、北条泰時とともに幕府政治を動かすようになった。
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- 連署(れんしょ)
執権の補佐役で、執権に次ぐ重職。
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- 評定衆(ひょうじょうしゅう)
1225年に北条泰時によって鎌倉幕府に置かれた職。
裁判や政務を合議によって処理し、御成敗式目の編纂にも当たった。
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- 御成敗式目(ごせいばいしきもく)
1232年
北条泰時が制定した法律。
51カ条から成る。
内容に対して評価が高く、江戸時代の俳人である松尾芭蕉は「明月の出るや五十一ヶ条」の句を詠んだ。
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- 藤原頼経(ふじわらのよりつね)
1218年 - 1256年
鎌倉幕府第四代将軍(在職:1226年 - 1244年)。
九条頼経とも呼ばれる。
前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。源氏の将軍が3代で途絶えたのち、摂関家から藤原(九条)頼経が鎌倉に下り、3代執権北条泰時の時に4代目の将軍となった。
頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。
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- 地頭請所(じとううけしょ)
地頭が権限を乱用して荘園の年貢納入を妨げたりするようになったことをうけ、荘園領主たちが紛争を避けるために契約した制度。
荘園領主が地頭に荘園の管理いっさいをゆだねるかわりに、地頭は荘園領主への一定の年貢納入を請け負った。
しかし、契約が守られないことも多かった。
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- 下地中分(したじちゅうぶん)
荘園の下地(収益権のある土地)を荘園領主と地頭で分けて、相互の支配権を認め、互いに侵略しないことを約束する紛争解決法。
荘園領主と地頭の争いを解決するために行われるようになった。
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- 伯耆国の東郷荘の下地中分絵図(ほうきのくにのとうごうのしょうのしたじちゅうぶんえず)
東郷荘の領家である松尾神社と地頭との間で下地中分が行われたときに作成されたもの。
下地中分の際に作成された荘園絵図としてよく知られたもの。
執権と連署の花押が据えられている。
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- 伯耆国(ほうきのくに)
現在の鳥取県西部にあたる国。
伯耆国の東郷荘の下地中分絵図は有名。
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- 東郷荘(とうごうのしょう)
伯耆国にあった松尾神社領の荘園。
ここの下地中分絵図は有名。
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- 執権と連署の花押(しっけんとれんしょのかおう)
伯耆国の東郷荘の下地中分絵図には執権と連署の花押がある。
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- 越後国奥山荘波月条絵図(えちごのくにおくやまのしょうなみつきじょうえず)
越後国の奥山荘の波月条という荘園の絵図。
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- 越後国(えちごのくに)
現在の佐渡島を除いた新潟県の旧国名。
越後国の奥山荘の波月条という荘園の絵図は有名。
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- 奥山荘(おくやまのしょう)
越後国にある荘園。
奥山荘の地頭職は和田義盛の弟の義茂に与えられ、のちに地頭請所となった。
越後国奥山荘波月条絵図は有名。
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- 和田義盛の弟(わだよしもりのおとうと)
奥山荘の地頭職は木曽義仲を追討した恩賞として和田義盛の弟の義茂に与えられ、のちに地頭請所となった。
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- 問丸(といまる)
問(とい)とも呼ばれる。
商品の運送にかかわった。
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- 借上(かしあげ)
高利貸しの金融業者。室町時代には土倉と呼ばれるようになった、
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- 道元(どうげん)
1200年 - 1253年
僧。
日本における曹洞宗の開祖。
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- 曹洞宗(そうとうしゅう)
元々は中国の宗教。日本においては道元が開祖。禅宗。鎌倉仏教の一つ。
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- 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
道元の説示を収録したもの。
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- 永平寺(えいへいじ)
道元が開創した寺院。
曹洞宗大本山。
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- 叡尊(えいぞん)
1201年 - 1290年
真言律宗の僧。
戒律の復興に努める。
社会事業に尽くす。蒙古軍襲来の際は撃退の祈祷も行う。
西大寺を再興したことで知られる。
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- 忍性(にんしょう)
1217年 - 1303年
真言律宗の僧。
叡尊の弟子。
ハンセン病患者の教済施設として北山十八間戸を創設した。
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- 北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)
忍性が奈良に創設したハンセン病患者の教済施設。
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- 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)
1220年 - 1272年
第88代天皇(在位:1242年 - 1246年)。
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- 後深草天皇(ごふかくさてんのう)
1243年 - 1304年
第89代天皇(在位:1246年 - 1260年)。
父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛したため不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じることとなった。
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- 北条時頼(ほうじょうときより)
1227年 - 1263年
鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)。
1246年に藤原頼経を始めとする反北条勢力が力をつけ、軍事行動の準備も始めたので、これを鎮圧し頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。
1249年に公正で迅速な裁判を目指して引付衆をおいた。
1252年に第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。
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- 三浦泰村(みうらやすむら)
? - 1247年
鎌倉幕府の有力御家人。
北条氏と対立し、宝治合戦で滅ぼされた。
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- 宝治合戦(ほうじかっせん)
1247年
鎌倉幕府の内乱による武力衝突。
北条氏と外戚の安達氏らによって、有力御家人の三浦泰村とその一族が滅ぼされた。
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- 引付衆(ひきつけしゅう)
裁判の迅速化と公平性を高めるために、執権北条時頼によって1249年に鎌倉幕府に置かれた職。
所領関係の訴訟を専門に担当した。
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- 宗尊親王(むねたかしんのう)
1242年 - 1274年
鎌倉幕府第六代将軍(1252年 - 1266年)。
鎌倉幕府からの求めにより、皇族がはじめて将軍となった。
実権は北条氏が握っていたため、形式だけの将軍であったが、和歌に長じ、武家を中心とする歌壇が隆盛を極めた。
後、謀反の嫌疑がかけられ将軍の解任後、京に戻る。
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- 建長寺(けんちょうじ)
1253年に北条時頼が創建した禅宗寺院。
中国から来た臨済宗の僧である蘭渓道隆が開山した。
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- 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)
1213年 - 1278年
1246年に来日した中国(南宋)の臨済宗の僧。
北条時頼によって建長寺が創建されると招かれて開山となった。
それまで日本で勢力を持っていた仏教とは経典の読み方や儀礼のあり方が全く異なる当時の中国で行われていた仏教をそのままの形で日本に伝えた。
結果、禅宗寺院を統率するため、南宋(当時の中国)の禅宗制度を真似て五山・十刹が創始された。
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- 五山・十刹(ござんじっさつ)
幕府が禅宗寺院の寺格を定め、その住持(長たる僧侶)を任免する制度。
五山に選ばれたいくつかの寺院が格の高い寺院と認められ、十刹に選ばれたいくつかの寺院が、それに次いで格の高い寺院と認められた。
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- 五山版(ござんばん)
臨済宗の僧侶が出版した書物の総称。
五山の漢詩文の一部は出版されて流布した。
五山とは、臨済宗の寺の格付けの中で最高位の格の寺のこと。
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- 日蓮(にちれん)
1222年 - 1282年
僧。
日蓮宗(法華宗)の宗祖。
鎌倉で伝道活動を行い『立正安国論』を著した日蓮は、法華経を信仰して他宗を激しく攻撃し、国難到来を予言する日蓮の意見を無視する幕府を批判したため、他宗や幕府の迫害をうけ何度も流罪になったが、その教えは鎌倉の下町の商工業者や東国の地方都市に広がっていった。
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- 日蓮宗(にちれんしゅう)
法華宗ともいう。
日蓮によって興された鎌倉仏教の一つ。
「南無妙法蓮華経」って唱える派。
法華宗なので、「南無妙法蓮華経」って唱えると覚えてね。
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- 題目(だいもく)
法華宗(日蓮宗)で唱える「南無妙法蓮華経」の七文字のこと。
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- 立正安国論(りっしょうあんこくろん)
1260年
日蓮が書いた著作。
「最近の天変地異は、みんな法華経に背いてる結果だよ。法華経信じなよ」って書かれてる。
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- 久遠寺(くおんじ)
日蓮が建てた寺院。
法華宗の総本山。
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- 亀山天皇(かめやまてんのう)
1249年 - 1305年
第90代天皇(在位:1260年 - 1274年)。
大覚寺統の祖。兄の後深草天皇を差し置いて父母から寵愛され、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じることとなる。
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- 持明院統(じみょういんとう)
後深草天皇の子孫の皇統。
大覚寺統と、天皇位やそれに伴う貴族社会の最高権力者の立場を争った。
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- 大覚寺統(だいかくじとう)
亀山天皇の子孫の皇統。
持明院統と、天皇位やそれに伴う貴族社会の最高権力者の立場を争った。
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- 両統迭立(りょうとうてつりつ)
鎌倉幕府は、対立する持明院統と大覚寺統の両方の皇統と交渉を重ね、天皇を交代で出す両統迭立という慣行を作り上げていった。
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- 親鸞が亡くなる(しんらんがなくなる)
1263年
親鸞が亡くなる。
自らが開宗する意志は無かったと考えられるが、宗派として教義の相違が明確となり、親鸞の没後に浄土真宗が確立される。
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- 浄土真宗(じょうどしんしゅう)
親鸞が師である法然の教えを継承し、展開した教え。親鸞の死後、門弟が教団として発展させる。鎌倉仏教の一つ。
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- フビライ=ハン
1215年 - 1294年
モンゴル帝国第5代皇帝(1260年 - 1271年)。チンギス=ハンの孫。
都を大都に移し、国号(国の名前〉を元に改めた。
日本に朝貢を求めて国書を送った。
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- 大都(だいと)
元の都。
現在の北京。
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- 元(げん)
1271年 - 1368年
フビライ=ハンが大都を都として建国した国。
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- 三別抄(さんべつしょう)
高麗(朝鮮半島にあった国)の精鋭部隊。
高麗南部で元に対して抵抗を続けていたが、1273年に鎮圧された。
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- 高麗が元に服属する(こうらいがげんにふくぞくする)
朝鮮半島にあった国、高麗が元に服属した。
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- 北条時宗(ほうじょうときむね)
1251年 - 1284年
鎌倉幕府第8代執権(在職:1268年 - 1284年)。
高麗を服属させたフビライ=ハンから、朝貢を求めて国書が来たが、黙殺した。
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- 歎異抄(たんにしょう)
親鸞の死から20~30年後に成立したとされる親鸞の語録。
弟子の唯円の著述とされる。
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- 異国警固番役(いこくけいごばんやく)
1271年から、元の襲来に備え、御家人に課された北九州沿岸防備の軍役。
はじめ九州の御家人にのみ課せられた。
蒙古襲来の後、元が再び襲来することを想定し、異国警固番役が引き続き設けられた。
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- 本願寺(ほんがんじ)
1272年に親鸞の遺骨が納められたお寺。
大坂石山などへの移転を経て江戸時代に西本願寺と東本願寺に分かれた。
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- フビライ=ハンが元寇で日本を攻めた(フビライ=ハンがげんこうでにほんをせめた)
フビライ=ハンが元寇で日本を攻めた。
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- 元寇(げんこう)
1274年と1281年の2回に渡り元のフビライの軍が日本に攻めてきた事変。1274年のものを「文永の役」、1281年のものを「弘安の役」ともいう。日本はこれを撃退した。
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- 元寇の時の執権は北条時宗(げんこうのときのしっけんはほうじょうときむね)
元寇の時の執権は鎌倉幕府第8代執権(在職:1264年 - 1284年)の北条時宗。
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- 文永の役(ぶんえいのえき)
1274年
フビライの軍が日本に攻めてきた戦い。
騎馬を得意とする元軍は、軍馬とともに約3万の大軍を送り込んできた。一騎打ち戦を主とする日本と異なり、元は集団戦を得意とし、「てつはう」と呼ばれる火薬兵器を用いた。
幕府が動員した武士達は苦戦したが、元軍も損害を被り、元軍内部の対立もあり高麗へと撤兵した。
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- 一遍(いっぺん)
1239年 - 1289年
僧。踊り念仏の時宗の開祖。
1274年開宗。
信濃国で踊念仏を始めた。
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- 時宗(じしゅう)
鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。一遍の開祖。鎌倉仏教の一つ。
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- 踊念仏(おどりねんぶつ)
時宗の開祖一遍が行った踊りながら布教する布教方法。
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- 『一遍上人語録』(いっぺんしょうにんごろく)
一遍の死後、一遍の言葉を門弟たちが編集し、江戸後期に刊行した。
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- 清浄光寺(しょうじょうこうじ)
時宗の総本山。
一遍の孫弟子が創建した。
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- 信濃国(しなののくに)
現在の長野県。
一遍は信濃国で踊念仏を始めた。
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- 『一遍上人絵伝』(いっぺんしょうにんえでん)
一遍の生涯を描いた絵巻。
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- 北条実時(ほうじょうさねとき)
1224年 - 1276年
武将。金沢流北条氏の実質初代。
文化人としても知られ、1275年に武家の文庫である金沢文庫を創設した。
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- 金沢文庫(かなざわぶんこ)
1275年頃に北条実時が設けた日本最古の武家文庫。
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- 阿氐河荘(あてがわのしょう)
かつて和歌山県有田郡にあった荘園。
寂楽寺を領家、円満院門跡を本家としていたが、14世紀初めには高野山(金剛峯寺)領となった。
1275年に阿氐河荘の農民たちが領主に出したカタカナ書きの訴状が現在に伝わっている。
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- 高野山(こうやさん)
14世紀初めに阿氐河荘は高野山(金剛峯寺)領となった。
そのため阿氐河荘の関係文書は高野山(金剛峯寺)に多数伝来する。
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- 阿氐河荘百姓等訴状(あてがわのしょうひゃくしょうらそじょう)
1275年
阿氐河荘上村の百姓が地頭の湯浅宗親を訴えるために提出した百姓訴状。
13カ条にわたる地頭の非道を言上し、湯浅宗親が暴力的な支配で過重な役を課すため、領家の求める材木の納入が出来ないと訴えている。
高野山(金剛峯寺)に伝わる阿氐河荘の関係文書の中でも特に有名な文書。
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- 1275年
阿氐河荘百姓等訴状が提出されたのは1275年。
覚え方は「意(1)味不(2)明!な(7)んだこ(5)いつ!阿氐河荘の百姓マジ切れ」です。
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- 湯浅宗親(ゆあさむねちか)
阿氐河荘百姓等訴状で訴えられた地頭。
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- 材木(ざいもく)
阿氐河荘百姓等訴状では、湯浅宗親が無茶苦茶言うから領家の求める材木の納入が出来ないと訴えていた。
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- 一味神水(いちみしんすい)
一揆を始めるときに、神前に捧げた「神水」に起請文(誓約書)を焼いた灰を混ぜて飲み交わす作法のこと。
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- 十六夜日記(いざよいにっき)
阿仏尼によって記された紀行文日記。中世三大紀行文の一つ。
京都では解決できない所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へ下った際の道中、および鎌倉滞在の間の出来事をつづる。
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- 藤四郎吉光(とうしろうよしみつ)
生没年不詳。
粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)とも呼ばれる。
鎌倉時代後期の京都の刀工。
刀剣の名作を残した。
岡崎政宗とともに刀鍛冶の双璧。
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- 岡崎政宗(おかざきまさむね)
生没年不詳。
政宗とも呼ばれる。
鎌倉時代後期の鎌倉の刀工。
刀剣の名作を残した。
藤四郎吉光とともに刀鍛冶の双璧。
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- 石築地(いしついじ)
博多湾沿岸に築造した石造の防塁。
文永の役後に、再度の元軍の襲来に備えて造られた。
防塁の構築は御家人のみならず九州地方の所領所有者にも課せられた。
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- 弘安の役(こうあんのえき)
1281年
南宋を滅ぼした元が再度日本を攻めてきた戦い。
日本軍の奮戦に足止めされた元軍は暴風雨により壊滅的な打撃を受けて撤退した。
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- 無学祖元(むがくそげん)
1226年 - 1286年
南宋の臨済宗の僧。
北条時宗の招きで来日し、1282年に鎌倉に円覚寺を開いた。
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- 無学祖元は北条時宗の招きで来日する
無学祖元は北条時宗の招きで来日した。
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- 得宗(とくそう)
北条氏の当主のこと。
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- 御内人(みうちびと)
得宗の家臣のこと。
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- 内管領(うちかんれい)
御内人の中で一番偉い人。
「ないかんれい」とも読む。
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- 平頼綱(たいらのよりつな)
1241年 - 1293年
内管領。
御内人の筆頭格として北条時宗の専制体制を補佐した。
北条時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。
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- 安達泰盛(あだちやすもり)
1231年 - 1285年
武士。鎌倉幕府の有力御家人。
1285年、内管領の平頼綱と対立して一族とともに滅ぼされた(=霜月騒動)。
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- 霜月騒動(しもつきそうどう)
1285年
鎌倉幕府の政変。
8代執権北条時宗の死後、有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱の対立が激化し、泰盛とその一族が滅ぼされた事件。
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- 『男衾三郎絵巻』(おぶすまさぶろうえまき)
13世紀末成立。
地方武士の生活が描かれている。
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- 北条貞時(ほうじょうさだとき)
1272年 - 1311年
鎌倉幕府第9代執権(在職:1284年 - 1301年)。
鎌倉大地震の混乱に乗じて平禅門の乱で平頼綱を滅ぼした。
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- 平禅門の乱(へいぜんもんのらん)
1293年
鎌倉で起こった政変。
大地震にみまわれた鎌倉で、余震の続く中で得宗家の北条貞時が内管領の平頼綱を殺害した。
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- 鎮西探題(ちんぜいたんだい)
1293年
元は第3次日本侵攻も計画しており、これに対応するため鎌倉幕府が1293年に博多に設置した九州地域の軍事・裁判を管轄する機関。
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- 徳政令(とくせいれい)
1297年
貧窮に苦しむ御家人の保護のために、借金の帳消しを命じたもの。
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- 徳政(とくせい)
優れた政治のこと。または、過去の優れた時代に戻ること。
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- 吾妻鏡(あずまかがみ)
1300年ごろに成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から第6代将軍宗尊親王まで6代の将軍記。編纂者は複数の者とみられる。
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- 円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりでん)
禅宗様という建築手法によって、円覚寺舎利殿が建てられた。
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- 禅宗様(ぜんしゅうよう)
宋から導入された建築様式。
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- 高階隆兼(たかしなたかかね)
1309年頃に『春日権現験記』を描く。
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- 『春日権現験記』(かすがごんげんげんき)
1309年
高階隆兼が描いた絵巻物。
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- 北条高時(ほうじょうたかとき)
1304年 - 1333年
鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)
1325年、建長寺の再建費用を得るために元に『建長寺船』という貿易船を元に派遣した。
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- 建長寺船(けんちょうじぶね)
1325年
火災にあった建長寺の再建費用を得るため、鎌倉幕府が公認し、元に派遣した貿易船。
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- 荏胡麻(えごま)
鎌倉時代の後期には荏胡麻の栽培が行われた。
荏胡麻からは灯油が生産された。
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- 神人(じにん)
商工業者の中には、大きな寺社や天皇家などに所属して、特権を認められる者が現れた。
このうち神社に奉仕して特権を得た者を神人という。
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- 兼好法師(けんこうほうし)
1283年頃? - 1352年以後?
官人。遁世者。歌人。随筆家。
日本三大随筆の一つ「徒然草」で有名。
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- 徒然草(つれづれぐさ)
兼好法師が書いた随筆。日本三大随筆の一つ。
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- 悪党(あくとう)
鎌倉時代後期の、幕府に従わない武士。
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- 十三湊(とさみなと)
津軽半島の日本海側にあった
安藤氏(安東氏)が本拠地を置いた。
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- 安藤氏(あんどううじ)
得宗の支配下にあった氏。
安東氏とも表記する。
津軽の十三湊に本拠地を置いた。
中世後期には現在の北海道南部に拠点(道南十二館)を置いた和人領主たちを従え、勢力を及ぼした。
これら和人領主のうち、のちに自立し近世大名へ成長した領主として蠣崎家がいる。
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- 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
1288年 - 1339年
第96代天皇(在位:1318年 -1339年)。
鎌倉幕府の力で天皇となった大覚寺統の後醍醐天皇は、幕府に左右される自らの立場の弱さに不満を持ち鎌倉幕府打倒を計画したが捕らえられ、1332年に隠岐に流罪となる。
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- 正中の変(しょうちゅうのへん)
1324年
後醍醐天皇の最初の倒幕計画。
事前に発覚して失敗した。
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- 元弘の変(げんこうのへん)
1331年
後醍醐天皇の次の倒幕計画。
未然に発覚して失敗し、後醍醐天皇は隠岐へ流された。
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- 後醍醐天皇が隠岐に流される(ごだいごてんのうがおきにながされる)
元弘の変により、後醍醐天皇が隠岐へ流された。
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- 後醍醐天皇が隠岐を脱出する(ごだいごてんのうがおきをだっしゅつする)
後醍醐天皇は1333年に隠岐から脱出し、悪党や鎌倉幕府に不満を持つ御家人を味方につけて幕府を倒した。
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- 足利尊氏(あしかがたかうじ)
1305年 - 1358年
有力御家人でありながら幕府を倒す中心的な役割をした。
1333年に六波羅探題を滅ぼした。
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- 足利尊氏が六波羅探題を滅ぼす(あしかがたかうじがろくはらたんだいをほろぼす)
1333年に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼした。
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- 伊勢神道(いせしんとう)
鎌倉時代末期には外宮の神官によって、神を主として仏を従とする独自の「伊勢神道」と呼ばれる神道理論が集大成された。
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- 一期分(いちごぶん)
女子への所領分割を本人限りとして、死後は惣領に返却する相続のあり方。