江戸時代【高校:日本史】 1603年 - 1867年

絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。

江戸時代(えどじだい)
江戸時代(えどじだい)

1603年 - 1867年

徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いてから大政奉還までの時代。

この時代の徳川将軍家による政府は江戸幕府と呼ぶ。

徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康(とくがわいえやす)

1543年 - 1616年

征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、江戸幕府が誕生した。江戸幕府初代征夷大将軍(在職:1603年 - 1605年)。

江戸の場所(えどのばしょ)
江戸の場所(えどのばしょ)

現在の東京。

慶長小判(けいちょうこばん)
慶長小判(けいちょうこばん)

徳川家康が鋳造・発行した金貨。

金座で鋳造された貨幣で、個数で計算して価値を決める計数貨幣。

金座(きんざ)
金座(きんざ)

江戸幕府の金貨鋳造所。

丁銀(ちょうぎん)
丁銀(ちょうぎん)

徳川家康が鋳造・発行した銀貨。

銀座で鋳造された貨幣で、秤で重さを量って価値を決める秤量貨幣。

銀座(ぎんざ)
銀座(ぎんざ)

江戸幕府の銀貨鋳造所。

江戸では金貨が使われる
江戸では金貨が使われる

江戸時代、江戸では主に金貨が使われた。

上方では銀貨が使われる
上方では銀貨が使われる

江戸時代、上方では主に銀貨が使われた。

京都所司代(きょうとしょしだい)
京都所司代(きょうとしょしだい)

朝廷の統制や西国大名の監視を目的に設置された機関。

町人地(ちょうにんち)
町人地(ちょうにんち)

江戸時代、江戸の町人が住んでいた地域のこと。

町人地に区分された地域は人口密度が高く、木造家屋が密集していた。

そのため、後の時代の関東大震災や東京大空襲などでも大きな被害を受けた。

地借(じがり)
地借(じがり)

町人地の中の町に居住し、宅地の一部か全部を借りて自分で家を建てて住んだ人のこと。

運上(うんじょう)
運上(うんじょう)

営業税の一種。

冥加(みょうが)
冥加(みょうが)

営業税の一種。

親藩(しんぱん)
親藩(しんぱん)

江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。

譜代大名(ふだいだいみょう)
譜代大名(ふだいだいみょう)

関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えた者。譜代大名に老中の職を独占させた。

外様大名(とざまだいみょう)
外様大名(とざまだいみょう)

関ヶ原の戦い以後に徳川氏に仕えた者。

老中(ろうじゅう)
老中(ろうじゅう)

江戸幕府の政務を統括する最高職。

譜代大名から選任された。

旗本(はたもと)
旗本(はたもと)

江戸幕府の軍事力の中核。

将軍直属の家臣で一万石未満の者。

将軍に謁見する資格あり。

旗本は知行高に応じて人馬・武器を保持し、従軍する軍役という負担を課された。

知行高(ちぎょうだか)
知行高(ちぎょうだか)

所領地の石高(こくだか)のこと。

石高とは土地の生産高を米の量に換算して示したもの。

御家人(ごけにん)
御家人(ごけにん)

江戸幕府の軍事力の中核。

将軍直属の家臣で一万石未満の者。

将軍に謁見する資格なし。

村入用(むらにゅうよう)
村入用(むらにゅうよう)

村を運営する費用。

村人から徴収した。

村請制(むらうけせい)
村請制(むらうけせい)

村の責任で年貢を納入した。

本百姓(ほんびゃくしょう)
本百姓(ほんびゃくしょう)

村で、年貢や諸役を負担するとともに、村の経営の中心となった者。

結(ゆい)
結(ゆい)

田植えなど一時的に大量の労働力を必要とするときに親類や近隣の人らで行う共同労働のこと。

もやいともいう。

助郷役(すけごうやく)
助郷役(すけごうやく)

街道周辺の村のなかには人馬不足の際に補助人足を出すよう指定された助郷と呼ばれる村があり、その助郷に課せられた交通補助の労役を助郷役といった。

小物成(こものなり)
小物成(こものなり)

雑税のこと。

シャム
シャム

現在のタイのこと。

徳川家康はシャム、カンボジア、アンナン等に書簡を送り友好関係を深めた。

傾き者(かぶきもの)
傾き者(かぶきもの)

太平の世になると、武芸の鍛錬を求められていた旗本・御家人の中にはこれになじめず、異様な風体で江戸市中を練り歩いたり、乱暴を働いたりする者も現れた。

異様な風体で江戸市中を練り歩いたり、乱暴を働いたりする旗本・御家人・町人を総称して「傾き者(かぶきもの)」という。

出雲の阿国(いずものおくに)
出雲の阿国(いずものおくに)

?年 - ?年

歌舞伎の創始者。女性。

歌舞伎は「傾き者」を語源とする。

国絵図(くにえず)
国絵図(くにえず)

江戸幕府が各国の大名に作らせた絵地図。

三貨(さんか)
三貨(さんか)

金貨・銀貨・銭貨(ぜにか)の三種の貨幣、江戸幕府はこれを正貨とした。

藩札(はんさつ)
藩札(はんさつ)

江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣のこと。

村法(そんぽう)
村法(そんぽう)

各村落の自治法。村定(むらさだめ)や村掟(むらおきて)とも言われる。これに基づいて追放や村八分などが行われた。

継飛脚(つぎびきゃく)
継飛脚(つぎびきゃく)

幕府が直接に運営した飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、

大名飛脚(だいみょうびきゃく)
大名飛脚(だいみょうびきゃく)

諸大名が藩と江戸の藩邸との間の連絡に用いた飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、

町飛脚(まちびきゃく)
町飛脚(まちびきゃく)

江戸、大坂、京都の3都を中心に民間で行われた飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、

遠国奉行(おんごくぶぎょう)
遠国奉行(おんごくぶぎょう)

江戸時代、幕府直轄の要地に配された奉行の総称。伏見、奈良、堺、山田、日光、下田、浦賀、新潟、佐渡、長崎、箱館の諸奉行、および京都、大坂、駿府の町奉行を言う。

町政(ちょうせい)
町政(ちょうせい)

町の自治行政のこと。江戸時代、地主と家持(家主)は町政の運営に参加できたが、地借・店借・借家などは町政に参加できなかった。

御蔭参り(おかげまいり)
御蔭参り(おかげまいり)

江戸時代、伊勢神宮へ参詣に行くことを御蔭参りと言った。

伊勢神宮(いせじんぐう)
伊勢神宮(いせじんぐう)

三重県伊勢市にある神社。

参考
伊勢神宮

門前町(もんぜんまち)
門前町(もんぜんまち)

神社、寺院の参道沿いに発達した町のこと。

宇治山田(うじやまだ)
宇治山田(うじやまだ)

伊勢神宮の門前町。

竜骨車(りゅうこつしゃ)
竜骨車(りゅうこつしゃ)

人力によって水を汲み上げる揚水機。江戸時代初期に普及した。

四木三草(しぼくさんそう)
四木三草(しぼくさんそう)

幕府・諸藩が重視した民間必需の商品作物。

四木とは桑・漆・茶・楮で、三草とは紅花・藍・麻のことである。

四木(しぼく)
四木(しぼく)

四木三草の四木とは茶(ちゃ)・楮(こうぞ)・桑(くわ)・漆(うるし)のことである。

桑(くわ)
桑(くわ)

四木三草の四木の一つ。

楮(こうぞ)
楮(こうぞ)

江戸時代の代表的な商品作物の一つ。

奉書紙をはじめとする和紙の原料となる作物。

三草(さんそう)
三草(さんそう)

四木三草の三草とは麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)のことである。

藍(あい)
藍(あい)

四木三草の三草の一つ。

四国地方の徳島藩の阿波国などで作られた。

阿波(あわ)
阿波(あわ)

現在の徳島県。

藍の産地として知られる。

紅花(べにばな)
紅花(べにばな)

キク科ベニバナ属の一年草。紅色染色や食用油の原料として使用される。この時代、産地としては出羽(現在の山形県・秋田県あたり)が有名。最盛期の幕末・文久(1861~1864)のころには、舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に集まった紅花は1550駄に達したとされる。

参考
紅花について:山形の紅花栽培の歴史と現状|おいしい山形ホームページ

紅花の代表的な産地の場所(べにばなのだいひょうてきなさんちのばしょ)
紅花の代表的な産地の場所(べにばなのだいひょうてきなさんちのばしょ)

ここらへんです。

出羽の村山郡です。

掛屋(かけや)
掛屋(かけや)

江戸時代、大坂などで諸藩の蔵屋敷に出入りして公金出納を担当した商人。

蔵屋敷(くらやしき)
蔵屋敷(くらやしき)

江戸時代、諸藩・旗本などが年貢米・国産物を販売するために設置した倉庫兼取引所。

東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)
東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)

江戸時代に加賀藩主前田綱紀が寄進した箱に収められている、東寺(教王護国寺)に伝わる仏事や寺院経営に関わる2万数千点の文書史料のこと。

朱子学(しゅしがく)
朱子学(しゅしがく)

儒学の中のひとつ。

中国の南宋で大成された。

身分に上下があることを前提とした社会秩序を重視した理論を持っており、封建領主の支配論理と合致するものであったため、江戸時代初期に幕府に受け入れられた。

蔵物(くらもの)
蔵物(くらもの)

納屋物と対比して、蔵屋敷などを通じて領主が販売する商品のこと。

納屋物(なやもの)
納屋物(なやもの)

蔵物と対比して、商人によって集荷・売買された商品のこと。

松前氏(まつまえし)
松前氏(まつまえし)

元々は蠣崎氏(かきざきし)を名乗っていたが、後に松前氏と改めた。

家康から蝦夷地におけるアイヌとの交易独占権を認められた。

朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)
朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)

幕府から海外渡航許可の朱印状を受けた朱印船によって行われた東南アジアとの間で行われた貿易。豊臣秀吉の時代に本格的に実施され、徳川家康がさらに積極的に海外貿易を推進した。

朱印状(しゅいんじょう)
朱印状(しゅいんじょう)

朱印船貿易において日本船の海外渡航時には将軍が発給する朱印状の所持を義務づけた。

渡航許可の朱印状は幕府が与える(とこうきょかのしゅいんじょうはばくふがあたえる)
渡航許可の朱印状は幕府が与える(とこうきょかのしゅいんじょうはばくふがあたえる)

朱印船に渡航許可の朱印状を与えたのは幕府。

ルソン
ルソン

現在のフィリピン。

朱印船が盛んに渡航した。

ちなみにルソンは漢字で書くと呂宋。

角倉了以(すみのくらりょうい)
角倉了以(すみのくらりょうい)

1554年 - 1614年

京都の豪商。朱印船貿易家として活躍。富士川や賀茂川などの整備に関わった。

高瀬川の開削を行い、内陸部の河川舟運の発達に寄与した。

参考
高瀬川開削400年―角倉了以と素庵|京の風物詩 京都鴨川納涼床への誘い

有馬晴信(ありまはるのぶ)
有馬晴信(ありまはるのぶ)

1567年 - 1612年

肥前日野江藩初代藩主。キリシタン大名。

朱印船貿易を行う。

末次平蔵(すえつぐへいぞう)
末次平蔵(すえつぐへいぞう)

?年 - 1630年

博多の豪商の子。

朱印船貿易家。

長崎で代官となる。

マカオ
マカオ

当時日本の最大の貿易相手はマカオを拠点としたポルトガル商人だった。

彼らは、中国産の生糸を長崎に運んで巨利を得ていた。

糸割符制度(いとわっぷせいど)
糸割符制度(いとわっぷせいど)

1604年

江戸幕府は、生糸貿易の主導権を握っていたポルトガル商人の独占を打破するため、ポルトガル船がもたらす白糸を一括購入して糸割符仲間に分配させた。

これは、輸入生糸の価格決定権を外国商人(ポルトガルなど)ではなく国内側に持つことを意図したものであり、また、外国側にとっても、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いなどで混乱する日本での販売不振を解決する手段として益があった。

1655年に一時廃されたが、1685年に復活した。

糸割符仲間(いとわっぷなかま)
糸割符仲間(いとわっぷなかま)

輸入生糸を一括購入して仲間に分配する権利を持つ商人仲間。

最初は堺、長崎、京都の三か所商人だけだったが、1631年に江戸と大坂が加わった。

覚え方は「サカナが今日!後から大江戸!(堺長京!あとから大坂江戸)」です。

徳川家康が徳川秀忠に将軍職を世襲する(とくがわいえやすがとくがわひでただにしょうぐんしょくをせしゅうする)
徳川家康が徳川秀忠に将軍職を世襲する(とくがわいえやすがとくがわひでただにしょうぐんしょくをせしゅうする)

1605年

徳川家康は、徳川秀忠に将軍宣下を受けさせ、徳川家が将軍職を世襲することを天下に知らしめた。

また大御所として実権を掌握しつつ、駿府城に移った。

徳川秀忠(とくがわひでただ)
徳川秀忠(とくがわひでただ)

1579年 - 1632年

武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍(在職:1605年 - 1623年)。

武家諸法度を制定し「文武弓馬の道を相嗜めろ」「城を修繕するときは必ず報告すること。城の新築はダメ」などを定めた。

1616年の家康の死去までは実権は家康が握っていた。

大御所(おおごしょ)
大御所(おおごしょ)

江戸幕府において征夷大将軍を退いて隠居した前将軍の尊称。

駿府城(すんぷじょう)
駿府城(すんぷじょう)

徳川家康は征夷大将軍を退いた後も大御所として実権を掌握しつつ駿府城に移った。

文之玄昌(ぶんしげんしょう)
文之玄昌(ぶんしげんしょう)

1555年 - 1620年

薩南学派の流れをくむ僧。

1606年に『鉄炮記』を著す。

鉄炮記(てっぽうき)
鉄炮記(てっぽうき)

1606年成立。

文之玄昌が著した鉄砲伝来に関する文献。

日本橋魚市場(にほんばしうおいちば)
日本橋魚市場(にほんばしうおいちば)

鮮魚の卸売市場として、江戸では日本橋魚市場、大坂では雑喉場魚市場が代表的。

雑喉場魚市場(ざこばうおいちば)
雑喉場魚市場(ざこばうおいちば)

鮮魚の卸売市場として、江戸では日本橋魚市場、大坂では雑喉場魚市場が代表的。

雑喉場魚市場の起源は17世紀初めごろ。

神田青物市場(かんだあおものいちば)
神田青物市場(かんだあおものいちば)

青物市場として江戸の神田の市場と、大坂の天満市場が有名。

天満青物市場(てんまあおものいちば)
天満青物市場(てんまあおものいちば)

青物市場として江戸の神田の市場と、大坂の天満市場が有名。

院内銀山(いんないぎんざん)
院内銀山(いんないぎんざん)

1607年に開山した銀山。

参考
院内銀山の歴史 | 歴史を知る | あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト

院内銀山の場所(いんないぎんざんのばしょ)
院内銀山の場所(いんないぎんざんのばしょ)

ここらへん。

刈敷(かりしき)
刈敷(かりしき)

刈った草葉を田に埋めて発酵させて肥料にすること。

金肥が一般化するとすたれた。

金肥(きんぴ)
金肥(きんぴ)

お金を支払って購入する肥料のこと。

干鰯や〆粕、油粕などが肥料として売られた。

己酉約条(きゆうやくじょう)
己酉約条(きゆうやくじょう)

1609年

対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた条約。

徳川家康は朝鮮に対して悪化した関係を対馬藩を通じて修復しようとした。

これにより対馬藩は日朝貿易を独占した。

朝鮮からは経典、陶器、木綿などを輸入した。

歳遣船(さいけんせん)
歳遣船(さいけんせん)

1609年に結んだ己酉約条にもとづき、日本が朝鮮に派遣した貿易船。

宗氏(そううじ)
宗氏(そううじ)

朝鮮外交は、対馬藩主の宗氏を介して行われた。

対馬藩(つしまはん)
対馬藩(つしまはん)

己酉約条により日朝貿易を独占した。

対馬藩と朝鮮の間で締結される
対馬藩と朝鮮の間で締結される

己酉約条は対馬藩と朝鮮の間で締結された。

通信使(つうしんし)
通信使(つうしんし)

朝鮮から日本へ送られた使節は通信使と呼ばれた。

回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)
回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)

1回目から3回目の通信使は朝鮮出兵で日本に連行された朝鮮人を連れ帰る目的も兼ねており、回答兼刷還使とも呼ばれた。

倭館(わかん)
倭館(わかん)

己酉約条により釜山に倭館がおかれ、日朝貿易の窓口とされた。

琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)
琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)

1609年

薩摩藩が琉球王国(現在の沖縄)に侵攻し、これを配下に収めた。

年号の覚え方は「ヒーロー(16)ゼロ(0)苦(く(9)る)しい戦い琉球侵攻」です。

島津家久(しまづいえひさ)
島津家久(しまづいえひさ)

1576年 - 1638年

江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。

朱印船貿易を行う。

1609年、将軍の許可を得て琉球王国に侵攻した。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)

1429年 - 1879年

1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。

ただし、名目上は独立を保ち、明(中国)の冊封(明の皇帝が朝貢してくる琉球王国の君主に官職を与えて君臣関係を結ぶ体制)は維持された。

琉球王国は明との朝貢関係を維持する
琉球王国は明との朝貢関係を維持する

薩摩藩に支配された後も、琉球王国は明との朝貢関係を維持した。

謝恩使(しゃおんし)
謝恩使(しゃおんし)

琉球国王が代わるたびに江戸幕府へ派遣された琉球王国の使節。

慶賀使(けいがし)
慶賀使(けいがし)

江戸幕府の将軍が代わるたびに琉球が江戸幕府に派遣した祝いの使節。

平戸(ひらど)
平戸(ひらど)

肥前の平戸島にある港。

徳川家康は、肥前国の平戸にオランダとイギリスの商館を置くことを許した。

1609年にオランダが商館を設置。1613年にイギリスが商館を設置。

参考
ひと(HITO) 響きあう宝島 平戸 | 長崎県平戸市

1609年に平戸に商館を構えたのはオランダ(1609ねんにひらどにしょうかんをかまえたのはオランダ)
1609年に平戸に商館を構えたのはオランダ(1609ねんにひらどにしょうかんをかまえたのはオランダ)

1609年に平戸に商館を構えたのはオランダ。

オランダ人のヤン=ヨーステンは徳川家康の外交顧問
オランダ人のヤン=ヨーステンは徳川家康の外交顧問

1600年にリーフデ号に乗って豊後国に漂着したオランダ人のヤン=ヨーステンは、その後徳川家康の外交・貿易顧問になった。

イギリス人のウィリアム=アダムズは徳川家康の外交顧問
イギリス人のウィリアム=アダムズは徳川家康の外交顧問

1600年にリーフデ号に乗って豊後国に漂着したイギリス人のウィリアム=アダムズは、その後徳川家康の外交顧問になった。

平戸のイギリス商館の経営に協力し、後に朱印船主となって安南・東京(トンキン)に渡航した。

田中勝介(たなかしょうすけ)
田中勝介(たなかしょうすけ)

生没年不詳。

京都の商人。

1609年に暴風に遭い日本に漂着したスペインのフィリピン群島臨時総督ドン=ロドリゴを送るため1610年にノビスパンに渡るが、家康の意図する日本・メキシコ間の通商開拓の目的は果たせなかった。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)

1596年 - 1680年

第108代天皇(在位:1611年 - 1629年)

1611年から天皇。

1627年に紫衣事件を起こす。

伊達政宗(だてまさむね)
伊達政宗(だてまさむね)

1567年 - 1636年

仙台藩主。

メキシコと直接貿易を開くために、1613年に家臣の支倉常長をスペイン(イスパニア)に派遣した。

支倉常長(はせくらつねなが)
支倉常長(はせくらつねなが)

1571年 - 1622年

1613年に慶長遣欧使節を率いてヨーロッパまで渡航した。

伊達政宗が家臣を派遣したのはスペイン(だてまさむねがかしんをはけんしたのはスペイン)
伊達政宗が家臣を派遣したのはスペイン(だてまさむねがかしんをはけんしたのはスペイン)

1613年に伊達政宗が家臣の支倉常長を派遣した先はスペイン。

伊達政宗が家臣を派遣したのはメキシコと直接貿易を開こうとしたため(だてまさむねがかしんをはけんしたのはメキシコとちょくせつぼうえきをひらこうとしたため)
伊達政宗が家臣を派遣したのはメキシコと直接貿易を開こうとしたため(だてまさむねがかしんをはけんしたのはメキシコとちょくせつぼうえきをひらこうとしたため)

伊達政宗が家臣をスペインに派遣したのは、メキシコと直接貿易を開こうとしたため。

帝国主義時代の当時、メキシコはスペインの統治下にあった。

山田長政(やまだながまさ)
山田長政(やまだながまさ)

?年 - 1630年

タイのアユタヤ朝で活躍した日本人。

大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)

1614年

徳川家康が大坂城の豊臣氏を攻めた戦い。

豊臣側は徳川側の猛攻をしのぎ、いったん和議が結ばれた。

大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
大坂夏の陣(おおさかなつのじん)

1615年

徳川方が冬の陣の和議の条件に反して大坂城の内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。

豊臣家は滅んだ。

豊臣秀頼(とよとみひでより)
豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593年 - 1615年

豊臣秀吉の後継者。三男。

大坂夏の陣で敗れ、自害した。

徳川家康が豊臣家を滅ぼす(とくがわいえやすがとよとみけをほろぼす)
徳川家康が豊臣家を滅ぼす(とくがわいえやすがとよとみけをほろぼす)

徳川家康は1614~15年の大坂の役(大坂冬の陣、大阪夏の陣)により、最終的に豊臣家を滅ぼした。

一国一城令(いっこくいちじょうれい)
一国一城令(いっこくいちじょうれい)

1615年

豊臣家を滅ぼした直後、江戸幕府は大名統制の為それぞれの領国内の城郭を制限する一国一城令を定めた。

これは領内の居城以外のすべての城の破却を命じた法令である。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)
金地院崇伝(こんちいんすうでん)

1569年 - 1633年

臨済宗の僧。

以心崇伝とも呼ばれる。

家康は金地院崇伝に命じて武家諸法度を起草し、秀忠の名で発布させた。

武家諸法度(ぶけしょはっと)
武家諸法度(ぶけしょはっと)

1615年発布

「文武弓馬の道を相嗜めろ」「城を修繕するときは必ず報告すること。城の新築はダメ」など大名を統制する規定。諸大名にその遵守を命じた。

しばしば武家諸法度違反が大名の改易に用いられた。

この武家諸法度は、将軍の代替わりごとに発せられることが多く、徳川吉宗による1717年の享保令まで改定が重ねられた。

元和令武家諸法度(げんなれいぶけしょはっと)
元和令武家諸法度(げんなれいぶけしょはっと)

1615年

徳川秀忠の命という形で出されたこの武家諸法度を指して元和令武家諸法度という。

条文には建武式目(室町時代に足利尊氏が出した17か条)や分国法などの規定が盛り込まれていた。

内容は
一 文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事。(下略)
一 諸国ノ居城修補ヲ為スト雖モ、必ズ言上スベシ。況ヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。(下略)
一 私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事。(下略)
など。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

1615年

江戸幕府が天皇および公家に対する関係を確立するために定めた制定法。徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定することとなった。

金地院崇伝が禁中並公家諸法度を起草する(こんちいんすうでんがきんちゅうならびにくげしょはっとをきそうする)
金地院崇伝が禁中並公家諸法度を起草する(こんちいんすうでんがきんちゅうならびにくげしょはっとをきそうする)

金地院崇伝が『禁中並公家諸法度』を起草した。

武家伝奏(ぶけてんそう)
武家伝奏(ぶけてんそう)

幕府と朝廷の交渉を仲介した役職。

公家から原則2人選ばれた。

幕府は武家伝奏を通じて朝廷を統制した。

改易(かいえき)
改易(かいえき)

武士の身分をはく奪し、領地を没収する刑。

徳川家康が太政大臣になる(とくがわいえやすがだいじょうだいじんになる)
徳川家康が太政大臣になる(とくがわいえやすがだいじょうだいじんになる)

1616年

徳川家康が江戸時代で最初に太政大臣になる。

太政大臣に任じられた翌月、駿府城で亡くなった。

太政大臣(だいじょうだいじん)
太政大臣(だいじょうだいじん)

太政官の長官。

ヌルハチ
ヌルハチ

1559年 - 1626年

1616年に女真族のヌルハチという人物が後金という国を建国して明軍と争った。

後金は後に清という国になり、明に取って代わることになる。

徳川秀忠が名実ともに将軍になる(とくがわひでただがめいじつともにしょうぐんになる)
徳川秀忠が名実ともに将軍になる(とくがわひでただがめいじつともにしょうぐんになる)

1616(元和2)年、徳川家康の死去により、名実ともに第2代征夷大将軍の徳川秀忠が将軍(在職:1605年 - 1623年)となり、1617年に領地宛行状を発給した。

領地宛行状(りょうちあてがいじょう)
領地宛行状(りょうちあてがいじょう)

主君から家臣に与えた文書。

領地の権利を認める証明書。

徳川秀忠は1617年に領地宛行状を発給した。

有田焼(ありたやき)
有田焼(ありたやき)

江戸時代には肥前で有田焼という陶器が盛んに生産され、海外へ輸出された。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)

栃木県日光市に所在する神社。

1616年に徳川家康が亡くなった後、遺命により遺骸は久能山に葬られたが、翌1617年に日光に改葬され、日光では徳川家康を神格化した東照大権現を祀るようになった。

参考
日光東照宮ホームページ

日光道中(にっこうどうちゅう)
日光道中(にっこうどうちゅう)

五街道のひとつ。

街道の終点に幕府が造営した宗教施設である日光東照宮が存在し、実利上の理由ではなく、主として幕府の威厳を示す目的で作られた街道。

五街道(ごかいどう)
五街道(ごかいどう)

参勤交代に伴い、幕府は、江戸の日本橋を起点とする幹線道路として東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道を整備した。

日本橋(にほんばし)
日本橋(にほんばし)

東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道は江戸の日本橋を起点とする。

中山道(なかせんどう)
中山道(なかせんどう)

五街道のひとつ。

五街道の中で最多の宿場数と第二の規模の常備人馬数を誇った。

有松絞り(ありまつしぼり)
有松絞り(ありまつしぼり)

有松の町の特産品。絞り染め。

東海道の名産品のひとつ。

本陣(ほんじん)
本陣(ほんじん)

街道に多くある宿駅の中でも、参勤交代の際に大名と家来たちが宿泊する施設のこと。

目付(めつけ)
目付(めつけ)

1617年設置。

旗本・御家人の監察にあたった。

福島正則(ふくしままさのり)
福島正則(ふくしままさのり)

1561年 - 1624年

武将。外様大名。

武家諸法度の『城を修繕するときは必ず報告すること』という決まりに違反し、広島城の無断修築をした疑いで、1619年に改易処分を受けた。

徳川秀忠が将軍職を徳川家光に譲る(とくがわひでただがしょうぐんしょくをとくがわいえみつにゆずる)
徳川秀忠が将軍職を徳川家光に譲る(とくがわひでただがしょうぐんしょくをとくがわいえみつにゆずる)

1623年

1623年、徳川秀忠は将軍職を徳川家光に譲るとともに、自らは大御所として引き続き権力を掌握していた。

徳川家光(とくがわいえみつ)
徳川家光(とくがわいえみつ)

1604年 - 1651年

江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。

1623年に将軍になった。

1623年
1623年

1623年に徳川家光が将軍になった。

覚え方は
「い(1)えみつが
む(6)っちゃ
ふ(2)つうに
見(3)くだしてくる
将軍になって
なんか感じ悪い」です。

短歌です。

琉球で黒砂糖が作られる
琉球で黒砂糖が作られる

1623年ごろ、琉球で黒砂糖が作られるようになり、薩摩藩は、琉球に、琉球産の黒砂糖を上納させた。

後水尾天皇が紫衣事件を起こす(ごみずのおてんのうがしえじけんをおこす)
後水尾天皇が紫衣事件を起こす(ごみずのおてんのうがしえじけんをおこす)

1627年

後水尾天皇は、紫衣事件を起こして幕府にめっちゃ怒られた。

紫衣事件(しえじけん)
紫衣事件(しえじけん)

1627年

江戸幕府は、禁中並公家諸法度で「幕府に届け出なく僧侶に紫衣の着用を許可するのは駄目だよ」って規定してるのに、届け出なく後水尾天皇が紫衣着用を勅許したことを問題にしてメッチャ怒った。幕府に抗議した大徳寺の沢庵らも処罰した。みたいな事件。

大徳寺(だいとくじ)
大徳寺(だいとくじ)

紫衣事件を幕府が問題にしたから、大徳寺の沢庵らが幕府にブーブー文句言ったら沢庵さんは流罪となった。

吉田光由(よしだみつよし)
吉田光由(よしだみつよし)

1598年 - 1672年

和算家。

1627年に『塵劫記』を刊行した。

塵劫記(じんこうき)
塵劫記(じんこうき)

1627年

吉田光由が執筆した算術書。

命数法や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を身近な話題をもとに解説し、これ一冊で当時の日常生活に必要な算術全般をほぼ網羅できる内容となっている。ベストセラーかつロングセラーとなった。

後水尾天皇が明正天皇に譲位する(ごみずのおてんのうがめいしょうてんのうにじょういする)
後水尾天皇が明正天皇に譲位する(ごみずのおてんのうがめいしょうてんのうにじょういする)

1629年

後水尾天皇は紫衣事件でめっちゃ怒られてやる気なくしてたから幕府の同意を求めずに明正天皇に譲位した。

徳川和子(とくがわかずこ)
徳川和子(とくがわかずこ)

1607年 - 1678年

徳川秀忠の娘。徳川家光の妹。

明正天皇(めいしょうてんのう)
明正天皇(めいしょうてんのう)

1624年 - 1696年

第109代天皇(在位:1629年 - 1643年)。女帝。徳川和子の子。

後水尾天皇は幕府に同意を求めず明正天皇に譲位したが、徳川秀忠の娘和子の子ということもあり、幕府はこれを追認した。

女歌舞伎(おんなかぶき)
女歌舞伎(おんなかぶき)

女性による歌舞伎。遊女が多かった。

風紀が乱れるとして1629年に禁止された。

若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)
若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)

1629年から行われた美少年による歌舞伎。

1652年に風紀が乱れるとして禁止された。

藤原惺窩(ふじわらせいか)
藤原惺窩(ふじわらせいか)

1561年 - 1619年

京都五山の僧。儒学者。京学派の祖。

姜沆に朱子学を教わり、儒学を体系化して京学派として独立させた。

徳川家康の招きを断り、代わりに弟子の林羅山を江戸へ遣わした。

林羅山(はやしらざん)
林羅山(はやしらざん)

1583年 - 1657年

儒学者。朱子学者。藤原惺窩の弟子。

藤原惺窩に学び、藤原惺窩の代わりに江戸へ行った。以後、林羅山の家系は幕府の儒者としての地位を継いでいった。

1630年に家塾の弘文館を開いた。

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)

1558年 - 1637年

芸術家。

代表作は舟橋蒔絵硯箱。

本末制度(ほんまつせいど)
本末制度(ほんまつせいど)

幕府は全国諸処にある寺々の掌握をはかり、寺院相互間のあり方を本寺・末寺の関係のもとに秩序立て、宗派を基準にして複数系統の組織として整備した。

宗派(しゅうは)
宗派(しゅうは)

同一宗教の中での分派のこと。

本末制度では宗派を基準にして複数系統の組織として整備された。

徳川家光が名実ともに将軍になる(とくがわいえみつがめいじつともにしょうぐんになる)
徳川家光が名実ともに将軍になる(とくがわいえみつがめいじつともにしょうぐんになる)

1632(寛永9)年、徳川家光は徳川秀忠の死去に伴い、生まれながらの将軍として絶大な権力をふるうとともに、江戸幕府の体制を確固としたものにする様々な施策を打ち出した。

大目付(おおめつけ)
大目付(おおめつけ)

1632年設置。

大名の監察にあたった。

老中奉書(ろうじゅうほうしょ)
老中奉書(ろうじゅうほうしょ)

将軍の意を奉じて(うけたまわって)江戸幕府の老中が発給する文書。

1633年から、将軍が発給する朱印状に加えて老中奉書の所持を義務づけ、奉書船(朱印状と、老中奉書をうけた海外渡航船)以外の日本船の海外渡航を禁止した。

徳川家光が明正天皇のもとに上洛する(とくがわいえみつがめいしょうてんのうのもとにじょうらくする)
徳川家光が明正天皇のもとに上洛する(とくがわいえみつがめいしょうてんのうのもとにじょうらくする)

1634年

徳川家光は将軍の権威を誇示するために明正天皇のもとに30万の軍勢を率いて上洛した。

江戸時代を通じて将軍が軍勢を率いて上洛した将軍は、これ以外には徳川家茂の一例のみである。

寛永令武家諸法度(かんえいれいぶけしょはっと)
寛永令武家諸法度(かんえいれいぶけしょはっと)

1635年

徳川家光が武家諸法度を改正した。これを指して寛永令武家諸法度という。

内容は「参勤交代しろ」「五百石以上の船停止の事(大船建造を禁止する)」など。

一 大名小名、在江戸交替、相定ル所ナリ。毎歳夏四月中参勤致スベシ。(下略)
一 私ノ関所、新法ノ津留、制禁ノ事。
一 五百石以上ノ船停止ノ事。
など。

お手伝い普請(おてつだいぶしん)
お手伝い普請(おてつだいぶしん)

幕府が諸大名に課した土木事業。

幕府は、大名に河川の改修などの負担を命じた。

参勤交代(さんきんこうたい)
参勤交代(さんきんこうたい)

各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令。1635年に徳川家光の寛永令武家諸法度によって制度化された。

諸士法度(しょしはっと)
諸士法度(しょしはっと)

1632年制定。1635年整備

江戸幕府が旗本・御家人の統制のために出した法令。

内容は
一 忠孝をはげまし、礼法を正し、常に文道武芸を心がけ、義理を専らにし、風俗を乱すべからざる事。
一 軍役定の如く、旗、弓、鉄砲、鑓、甲冑、馬皆具、諸色、兵具并人積、相違無き様之を嗜むべきこと。
一 跡目の儀、養子は存生の内言上致すべし。末期に及び忘却の刻申すといふとも、之を用ふべからず。
など。

諸士法度の「軍役」の基準と負担の内容(しょしはっとの「ぐんえき」のきじゅんとふたんのないよう)
諸士法度の「軍役」の基準と負担の内容(しょしはっとの「ぐんえき」のきじゅんとふたんのないよう)

石高を基準として、人馬や武器などの保持、戦時における戦への参加、土木工事などの手伝普請、参勤交代などが負担の内容。

幕藩体制(ばくはんたいせい)
幕藩体制(ばくはんたいせい)

江戸時代、将軍と大名が封建的な主従関係を結び、厳しい身分制度のもとに土地と人民を支配する体制のこと。

海外渡航と帰国の全面禁止(かいがいとこうときこくのぜんめんきんし)
海外渡航と帰国の全面禁止(かいがいとこうときこくのぜんめんきんし)

1635年

日本人の海外渡航と在外日本人の帰国が全面禁止された。

1635年
1635年

日本人の海外渡航と在外日本人の帰国の全面禁止は1635年です。

覚え方は

「人(1)無残(63)こ(5)れから海外と行き来できない」

です。

朱印船貿易の廃止(しゅいんせんぼうえきのはいし)
朱印船貿易の廃止(しゅいんせんぼうえきのはいし)

1635年

日本人の海外渡航と在外日本人の帰国の禁止にともない、朱印船貿易が廃止された。

私札(しさつ)
私札(しさつ)

江戸時代に民間で発行され、一部の地域で通用した紙幣。

町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)
町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)

富裕な町人が幕府や藩から請け負って開発した新田のこと。幕府は米を増産するために奨励した。

寛永通宝(かんえいつうほう)
寛永通宝(かんえいつうほう)

1636年に徳川家光が鋳造・発行し、江戸時代において最も発行枚数が多く、広く一般的に用いられた銅貨。

銭座で大量に鋳造された。

以前は輸入銭や私鋳銭などが混用して流通し貨幣流通は不安定であり、幕府は撰銭をめぐる法令を繰り返し出していたが、寛永通宝により銭の統合がはかられたため撰銭を必要とする経済は終息した

銭座(ぜにざ)
銭座(ぜにざ)

江戸時代、銭貨を鋳造・発行した機関。

寺請制度(てらうけせいど)
寺請制度(てらうけせいど)

寺院に檀家・檀徒であることを証明させる制度。

寺檀制度(じだんせいど)ともいう。

幕府がキリシタン禁制の徹底を目的に設けた。

檀那寺(だんなでら)
檀那寺(だんなでら)

自分の家が檀家となっている寺のこと。

江戸時代の庶民は、寺請制度のもと仏教への帰依の証として檀那寺を持つことが求められ、例外は認められなかった。

宗門改め(しゅうもんあらため)
宗門改め(しゅうもんあらため)

信仰の調査。

禁教目的に行われた。

善光寺本堂(ぜんこうじほんどう)
善光寺本堂(ぜんこうじほんどう)

信濃国にあった寺。

日本最古と称される一光三尊阿弥陀如来を本尊とする。

参考
御本尊 善光寺式阿弥陀三尊像-善光寺について | 信州善光寺

霊廟建築(れいびょうけんちく)
霊廟建築(れいびょうけんちく)

将軍家や大きな大名家での当主の死後、墓所に建てた壮麗な建造物の様式の総称。

明(みん)
明(みん)

1368年 - 1644年

中国の国。

1644年に北京を落とされ滅んだ。

清(しん)
清(しん)

1636年 - 1912年

明に取って代わった中国の国。

鄭成功(ていせいこう)
鄭成功(ていせいこう)

1624年 - 1662年

明の遺臣。

台湾を拠点として日本にさかんに貿易船を派遣し、その富と軍事力を背景に明の再興をはかった。

彼の功績をたたえた明の亡命政権の皇帝は彼に自らの「朱」姓を許し、それにちなんで彼は人びとから「国性爺」と呼ばれた。

台湾ではオランダ軍を打ち破った英雄として知られ、日本でも1715年に初演された人形浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公として有名。

島原の乱(しまばらのらん)
島原の乱(しまばらのらん)

1637年 - 1638年

九州で起きたキリスト教徒を中心とする一揆。

鎮圧された。

1637年に発生したこの乱の年号の覚え方は「人(1)を救うの無(6)理だった、み(3)んなムナしく亡(7)くなった島原の乱」です。

徳川家光の時に島原の乱が起きる(とくがわいえみつのときにしまばらのらんがおきる)
徳川家光の時に島原の乱が起きる(とくがわいえみつのときにしまばらのらんがおきる)

1637年

江戸幕府第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)の徳川家光の時に島原・天草一揆(島原の乱)が起きた。

ポルトガル船の来航を禁じる(ぽるとがるせんのらいこうをきんじる)
ポルトガル船の来航を禁じる(ぽるとがるせんのらいこうをきんじる)

1639年

島原の乱後、幕府は、キリスト教禁止を理由にポルトガル船の来航を禁じた。

1624年にオランダとの貿易戦争に敗れたイギリスが平戸から商館を引き上げたこと、1625年にキリスト教布教禁止のためスペイン船の来航を禁止したことと合わせ、鎖国は実質的な完成を遂げた。

鎖国(さこく)
鎖国(さこく)

1639年 - 1854年

江戸幕府が日本と海外との交易を朝鮮王朝、琉球王国、中国、オランダのみに絞り、外交的にある程度孤立した政策、および状態のこと。

直接の理由は、海外から来た宣教師によるキリスト教布教への警戒(島原の乱もあったし)であるが、間接的には輸入超過による貿易赤字をある程度統制したかった意図もあるとされている。

1854年の日米和親条約により鎖国状態が終わった。

幕府が海外渡航や貿易を制限した2つの理由
幕府が海外渡航や貿易を制限した2つの理由

キリスト教の禁教を徹底するため。

貿易に従事してる西国大名の富強化を抑えるため。

松前(まつまえ)
松前(まつまえ)

鎖国の状態において異国、異民族との交流のために開放されていた4つの対外的な窓口の内の一つ。

他は長崎、対馬、薩摩。

通信国(つうしんこく)
通信国(つうしんこく)

鎖国体制下で朝鮮と琉球王国は通信国と呼ばれた。

日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)
日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)

法華経の信者ではない者の布施を受けず、施しも与えないという教義をもつ宗教の一派。

「宗教の教えが政治支配に優先する」という教義だったため、キリスト教と並び幕府の弾圧の対象となった。

寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)
寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)

1640年から1643年にかけて起こった飢饉。

オランダ商館を出島に移転(おらんだしょうかんをでじまにいてん)
オランダ商館を出島に移転(おらんだしょうかんをでじまにいてん)

1641年

幕府は平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移転させた。

長崎(ながさき)
長崎(ながさき)

鎖国体制の下で唯一の貿易港。

鎖国後、幕府はオランダ人を平戸から長崎の出島に移した。

オランダ風説書(おらんだふうせつがき)
オランダ風説書(おらんだふうせつがき)

鎖国後に、幕府が海外情勢を知るために長崎の出島のオランダ商館長に要望して書かせた海外に関する情報書類。

1641年から情報の提供が開始された。

田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)
田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)

1643年に江戸幕府によって出された法令の総称。田畑の売買を禁止した。

前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布した。

由井正雪(ゆいしょうせつ)
由井正雪(ゆいしょうせつ)

1605年 - 1651年

軍学者。

関ヶ原の戦いや大阪の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増していたが、由井正雪はこれら浪人の支持を集めて1651年に慶安の変を起こす。

慶安の変(けいあんのへん)
慶安の変(けいあんのへん)

1651年

徳川家光が死去した1651年、家綱が4代将軍になる直前に起こった、由井正雪による多数の浪人を用いた国家転覆行動。

事前に計画がバレて未遂に終わり、由井正雪は自決した。

これを契機に、幕府は浪人の数が増えるきっかけになる改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和した。

末期養子の禁の緩和(まつごようしのきんのかんわ)
末期養子の禁の緩和(まつごようしのきんのかんわ)

幕府は武家の当主で跡継ぎのない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に養子縁組をとることを禁止していたが、慶安の変を受けて、浪人の数が増えるきっかけになる改易を少しでも減らすためにこの末期養子の禁を緩和した。

徳川家綱(とくがわいえつな)
徳川家綱(とくがわいえつな)

1641年 - 1680年

江戸幕府の第4代征夷大将軍(在職:1651年 - 1680年)。

徳川家綱から文治政治が始まったとされる。

在職中の1657年に明暦の大火があった。

文治政治(ぶんちせいじ)
文治政治(ぶんちせいじ)

武力ではなく教化や法令によって世を治めること。

幕府は儒教道徳を重視して、秩序の安定を図った。

野郎歌舞伎(やろうかぶき)
野郎歌舞伎(やろうかぶき)

成人男性のみによる歌舞伎。

女性役も男性の女形によって演じられる。

1652年に若衆歌舞伎が禁止された後、野郎歌舞伎に至って演劇として確立した。

隠元隆琦(いんげんりゅうき)
隠元隆琦(いんげんりゅうき)

1592年 - 1673年

中国から1654年に来日した僧。

日本に黄檗宗を伝えた。

参考
黄檗宗大本山萬福寺‐京都府宇治市

黄檗宗(おうばくしゅう)
黄檗宗(おうばくしゅう)

隠元隆琦が日本に伝えた禅宗の一派。

参考
黄檗宗大本山萬福寺‐京都府宇治市

徳川綱重(とくがわつなしげ)
徳川綱重(とくがわつなしげ)

1644年 - 1678年

甲府藩主。

徳川家光の子。徳川家宣の父。

1654年に旧浜離宮庭園を別邸とした。

甲府藩(こうふはん)
甲府藩(こうふはん)

甲斐国(山梨県)に存在した藩のひとつ。

徳川綱重はここの藩主だった。

松平信綱(まつだいらのぶつな)
松平信綱(まつだいらのぶつな)

1596年 - 1662年

幕府は松平信綱の建議にもとづき、飲み水を確保するために玉川上水路の開削を行い、1654年に完成させた。

1654年
1654年

幕府が松平信綱の建議にもとづき、飲み水を確保するために玉川上水路の開削を行い、完成させたのは1654年。

覚え方は「人(1)飲む(6)のどごし(54)良い水玉川上水路開削」です。

糸割符制度の廃止(いとわっぷせいどのはいし)
糸割符制度の廃止(いとわっぷせいどのはいし)

1655年

糸割符制度が廃止され、競争入札による相対自由貿易となった。

1685年に糸割符制度が復活する。

明暦の大火(めいれきのたいか)
明暦の大火(めいれきのたいか)

1657年

江戸で起きた大火災。江戸三大大火の一つ。

10万人を超える死者を出した。

これを契機に江戸の都市改造が行われ、延焼を防ぐための火除地や広小路が設けられるなど防災への取り組みもなされた。

回向院(えこういん)
回向院(えこういん)

明暦の大火の死者を弔うために幕府が設立した寺院。

参考
回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺

江戸城(えどじょう)
江戸城(えどじょう)

江戸幕府の所在地。

明暦の大火で天守閣が焼失した。

保科正之(ほしなまさゆき)
保科正之(ほしなまさゆき)

1611年 - 1673年

会津藩主。

民生の安定に力を尽くした名君と言われ、将軍徳川家綱を補佐した。

明暦の大火で焼失した江戸城の天守閣の再建に反対した。その結果、再建が見送られた。

定火消(じょうびけし)
定火消(じょうびけし)

1658年

明暦の大火の翌年に創設された。

旗本を長とする消防組織。

住吉如慶(すみよしじょけい)
住吉如慶(すみよしじょけい)

1599年 - 1670年

大和絵の絵師。江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。

山崎闇斎(やまざきあんさい)
山崎闇斎(やまざきあんさい)

1618年 - 1682年

南学派の儒学者。神道家。

朱子学の立場から神道を解釈し、垂加神道を説いた。

垂加神道(すいかしんとう)
垂加神道(すいかしんとう)

山崎闇斎が説いた神道。

吉田神道と朱子学を結合した。

伊藤仁斎(いとうじんさい)
伊藤仁斎(いとうじんさい)

1627年 - 1705年

京都の町人の家に生まれる。

1662年に「古義堂」を開いた。

古義堂(こぎどう)
古義堂(こぎどう)

1662年

伊藤仁斎が京都堀川に開いた私塾。

この塾は伊藤仁斎の子孫が代々継承し、江戸時代をとおして全国から多くの門人が参集した。

殉死を禁止する(じゅんしをきんしする)
殉死を禁止する(じゅんしをきんしする)

1663年

殉死とは主人の死に際し家臣がそのあとを追って切腹すること。

徳川家綱は寛永令武家諸法度を少しだけ修正した寛文令武家諸法度を発布するのに合わせて殉死の禁止を命じた。

霊元天皇(れいげんてんのう)
霊元天皇(れいげんてんのう)

1654年 - 1732年

第112代天皇(在位:1663年 - 1687年)。

諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)
諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)

1665年

江戸幕府が制定した神社を統制するための法令。

これにより公家の吉田家を通じて神職が統制され、村の神職の組織化が進んでいった。

山鹿素行(やまがそこう)
山鹿素行(やまがそこう)

1622年 - 1685年

儒学者。兵学者。

配流された赤穂で、日本こそが中華(中朝)であると、日本中華主義を説く『中朝事実』を著した。

中朝事実(ちゅうちょうじじつ)
中朝事実(ちゅうちょうじじつ)

1669年成立

山鹿素行著。

この本で山鹿素行は中国が自国を「中華」と呼ぶのに対し、日本を「中朝」と呼び、日本こそが中朝であると、日本中華主義を説いた。

『中朝事実』で「中朝」とは日本のこと(『ちゅうちょうじじつ』で「ちゅうちょう」とはにほんのこと)
『中朝事実』で「中朝」とは日本のこと(『ちゅうちょうじじつ』で「ちゅうちょう」とはにほんのこと)

山鹿素行が著した『中朝事実』で、「中朝」とは日本の事である。

シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)
シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)

1669年

交易の不正などに不満を持ったアイヌ集団が族長シャクシャインを中心に蜂起した戦い。

失敗し、松前藩のアイヌ支配は強化された。

紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)

初代は生没年不詳。

紀州のみかんを江戸に回送して利益を上げ、後に材木商に進出して財を成した。

2代目(1669年? - 1734年)は遊里での豪遊が有名。

『本朝通鑑』(ほんちょうつうがん)
『本朝通鑑』(ほんちょうつうがん)

1670年成立。

徳川幕府の命令で林羅山・林鵞峯の父子が編集した通史。

編年体で後陽成天皇までを記している。

閑谷学校(しずたにがっこう)
閑谷学校(しずたにがっこう)

1670年

岡山藩のつくった公立学校。

庶民の入学も許された。

参考
旧閑谷学校の概要 | 特別史跡旧閑谷学校

閑谷学校を作ったのは岡山藩(しずたにがっこうをつくったのはおかやまはん)
閑谷学校を作ったのは岡山藩(しずたにがっこうをつくったのはおかやまはん)

閑谷学校を作ったのは岡山藩です。

鯨油(げいゆ)
鯨油(げいゆ)

鯨(くじら)から取れる油のこと。

稲の害虫駆除に鯨油が使われた。

参考
農薬は本当に必要?|教えて!農薬Q&A|農薬工業会

河村瑞賢(かわむらずいけん)
河村瑞賢(かわむらずいけん)

1618年 - 1699年

江戸の商人。

東廻り航路、西廻り航路のルートを整備した。

参考
海運・治水に功労、河村瑞賢

東廻り海運(ひがしまわりかいうん)
東廻り海運(ひがしまわりかいうん)

1671年、豪商の河村瑞賢は幕府に命じられ、東北地方でつくられた米を、太平洋を南下して江戸まで運ぶ東廻り海運を整備した。

東廻り航路とも言う。

西廻り海運(にしまわりかいうん)
西廻り海運(にしまわりかいうん)

1672年には、河村瑞賢は最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み替え、日本海沿岸から瀬戸内海を廻って大坂を経て江戸にいたる西廻り海運を確立した。

西廻り航路とも言う。

酒田(さかた)
酒田(さかた)

現在の山形県酒田市。

西廻り海運の起点。

廻船(かいせん)
廻船(かいせん)

港から港へ旅客や貨物を運んで回る船のこと。

菱垣廻船(ひがきかいせん)
菱垣廻船(ひがきかいせん)

江戸時代に江戸と大坂の間を定期に航行した廻船の一つ。

のちにより迅速な荷積み・運航が可能な樽廻船に圧倒された。

樽廻船(たるかいせん)
樽廻船(たるかいせん)

定期船のうち、寛文年間に摂津でおこった小早を源流として、主に伏見や灘などで生産される酒を大坂・西宮などの上方から江戸へ輸送した廻船のこと。

南海路に就航した。

樽廻船などにより江戸にもたらされた物資は『下り荷』とよばれた。

荷積が迅速で輸送も早かったので、菱垣廻船を圧倒した。

徳川光圀(とくがわみつくに)
徳川光圀(とくがわみつくに)

1628年 - 1701年

水戸藩主。

彰考館を設立して『大日本史』を編纂した。

彰考館(しょうこうかん)
彰考館(しょうこうかん)

『大日本史』編纂のための支局。

1672年に小石川の水戸藩邸に設けられた。

大日本史(だいにほんし)
大日本史(だいにほんし)

水戸藩で編纂された歴史書。

水戸藩主の徳川光圀が編纂を命じた。

出典となる史料を注記しつつ、中国の正史の形式である紀伝体を用いている。

分地制限令(ぶんちせいげんれい)
分地制限令(ぶんちせいげんれい)

1673年

分割相続による田畑の細分化を防ぐための、分割相続を制限する法令。

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

1618年 - 1694年

浮世絵を確立した人物。「見返り美人図」が有名。

『見返り美人図』(みかえりびじんず)
『見返り美人図』(みかえりびじんず)

菱川師宣の肉筆美人画。

参考
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 見返り美人図(みかえりびじんず)

熊沢蕃山(くまざわばんざん)
熊沢蕃山(くまざわばんざん)

1619年 - 1691年

陽明学者。

著作「大学或問」で幕政を批判した。

岡山藩で治水治山の農業政策を実践した。

陽明学(ようめいがく)
陽明学(ようめいがく)

中国の明で創始された儒学の一派。

日本の陽明学者の学者からは幕府政治を批判する者もあらわれた。

野々村仁清(ののむらにんせい)
野々村仁清(ののむらにんせい)

生没年不詳

陶工。色絵藤花文茶壺(いろえふじはなもんちゃつぼ:江戸時代の陶磁器の名称)をたくさん作った。

強訴(ごうそ)
強訴(ごうそ)

17世紀末以降になると、村々の百姓たちが団結して、大勢で領主に年貢減免などの要求実現を迫る「強訴」が増加した。

住吉具慶(すみよしぐけい)
住吉具慶(すみよしぐけい)

1631年 - 1705年

住吉如慶の長男で住吉派の二代目。江戸前期を代表する大和絵氏のひとり。

大坂屋伊兵衛(おおさかやいへえ)
大坂屋伊兵衛(おおさかやいへえ)

? - 1718年

問屋商人。十組問屋(とくみどんや)という荷受け問屋の組合を江戸で結成し、江戸-大坂間の海路輸送で起きる荷主と船主のもめごとの処理にあたらせた。

十組問屋(とくみどんや)
十組問屋(とくみどんや)

江戸において結成された荷受問屋仲間の連合組織の名称。

二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)
二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)

江戸の十組問屋の成立に呼応して大坂で成立した積み荷問屋の組合。十組問屋と結んで大坂から江戸へ詰みだす荷物を独占的に取り扱った。

北前船(きたまえぶね)
北前船(きたまえぶね)

蝦夷地や日本海側の産物が、北前船で上方へ運ばれた。

蝦夷地から昆布が輸出される(えぞちからこんぶがゆしゅつされる)
蝦夷地から昆布が輸出される(えぞちからこんぶがゆしゅつされる)

江戸時代、蝦夷地から昆布が日本各地に輸出された。

館林藩(たてばやしはん)
館林藩(たてばやしはん)

江戸時代の藩の一つ。

江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、元々館林藩の藩主であった。

木下順庵(きのしたじゅんあん)
木下順庵(きのしたじゅんあん)

1621年 - 1699年

儒学者。

徳川綱吉の侍講をつとめた。

徳川綱吉(とくがわつなよし)
徳川綱吉(とくがわつなよし)

1646年 - 1709年

江戸幕府第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。

元々は館林藩の藩主であった。

儒者木下順庵に学び、その一方で湯島聖堂を建設し、林鳳岡(信篤)を大学頭に任命するなど、儒教を重視する政策をとった。

1683年の武家諸法度改定で「文武忠孝を励し、礼儀を正せ」「殉死の儀、弥制禁せしむる事」を制定。

護国寺(ごこくじ)
護国寺(ごこくじ)

1681年

徳川綱吉が建立した、現存する真言宗の寺院。

綱吉の母、桂昌院が帰依した僧亮賢を開山とする。

参考
護国寺について | 大本山 護国寺

井原西鶴(いはらさいかく)
井原西鶴(いはらさいかく)

1642年 - 1693年

大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」などが有名。

浮世草子(うきよぞうし)
浮世草子(うきよぞうし)

井原西鶴に代表される享楽的な内容の文学のこと。

好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)
好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)

井原西鶴が1682年に刊行した処女作。

江戸時代には、この世のさまざまな事象を描いた絵画が普及し、井原西鶴は『好色一代男』でこれを「浮世絵」と称した。

浮世絵は、当初肉筆(手描き)が盛んであったが、17世紀中頃から大量制作の可能な版画が広まった。

天和令武家諸法度(てんなれいぶけしょはっと)
天和令武家諸法度(てんなれいぶけしょはっと)

1683年

徳川綱吉が改定した武家諸法度を指して天和令武家諸法度という。

内容は
一 文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事。
一 養子は、同姓相応の者を撰び、若之なきにおゐては、由緒を正し、存生の内言上致すべし。五拾以上十七以下の輩、末期に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし。(中略)附、殉死の儀、弥制禁せしむる事。
など。

文武忠孝を励まし(ぶんぶちゅうこうをはげまし)
文武忠孝を励まし(ぶんぶちゅうこうをはげまし)

徳川綱吉が改定した武家諸法度の第1条の文の始まりは「文武忠孝を励まし」です。

五拾以上十七以下の輩、末期に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし(ごじゅういじょうじゅうしちいかのやから、まつごにおよびようしいたすといえども、ぎんみのうえこれをたつべし)
五拾以上十七以下の輩、末期に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし(ごじゅういじょうじゅうしちいかのやから、まつごにおよびようしいたすといえども、ぎんみのうえこれをたつべし)

「末期の養子を事情により認める」という意味。

末期の養子とは、跡継ぎがいない主君が危篤状態になった際に、お家断絶を避けるために緊急で願い出る養子のこと。

殉死の儀、弥制禁せしむる事(じゅんしのぎ、いよいよせいきんせしむること)
殉死の儀、弥制禁せしむる事(じゅんしのぎ、いよいよせいきんせしむること)

徳川家綱が殉死を禁止したが、徳川綱吉はそれを天和令武家諸法度で明文化した。

また、この政策により武家の主従関係において従者は主人個人ではなく主家に奉公するものとされ、これにより主従関係は殉死によって示される一代限りの関係でなく従者が主家に永続的に出仕する関係となり、下克上を間接的に否定することになった。

長崎貿易による金銀流出(ながさきぼうえきによるきんぎんりゅうしゅつ)
長崎貿易による金銀流出(ながさきぼうえきによるきんぎんりゅうしゅつ)

17世紀後半の長崎貿易では、多くの金銀が海外に流出していた。

生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)
生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)

徳川綱吉が1685年以降に出した極端な動物愛護令。

「生類あはれみ候儀に付、最前書付を以て仰出され候所、今度武州寺尾村、 同国代場村の者、病馬これを捨て不届の至に候。死罪にも仰付けらるべく候 得共、今度は先ず命御たすけ、流罪に仰付けられ候。」的なことが書かれてる。

定高貿易仕法(さだめだかぼうえきしほう)
定高貿易仕法(さだめだかぼうえきしほう)

1685年 - 1858年

長崎貿易でとられた制度。

金・銀建てによる貿易決済の年間取引額に一定の上限を設けた制度。

1655年に廃していた糸割符制度を定高貿易仕法により再興した。

灰吹法(はいふきほう)
灰吹法(はいふきほう)

朝鮮から導入されたの精錬法の一種。

この時代の銀の製造に用いられた方法。

霊元上皇(れいげんじょうこう)
霊元上皇(れいげんじょうこう)

1654年 - 1732年

第112代天皇の後、譲位して上皇となった。

1687年東山天皇即位の際、大嘗会の再興を幕府に願い、実現させた。

大嘗会(だいじょうえ)
大嘗会(だいじょうえ)

天皇が即位後に初めて行う新嘗祭(宮中での秋の収穫祭。)。

『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)
『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)

1688年刊。

井原西鶴の浮世草子。

契沖(けいちゅう)
契沖(けいちゅう)

1640年 - 1701年

和学者。

『万葉代匠記』を記す。

『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)
『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)

1688年頃に初稿が完成。

『万葉集』の注釈書。

契沖が記した。

唐人屋敷(とうじんやしき)
唐人屋敷(とうじんやしき)

1689年

長崎郊外に清国人の居留施設として唐人屋敷を設置し、清の人々の国内居住を制限した。

湯島聖堂(ゆしませいどう)
湯島聖堂(ゆしませいどう)

1690年

「聖堂学問所」ともいう。

孔子をまつる聖堂。

徳川綱吉が、林羅山の子孫が主催する家塾を湯島に移し聖堂学問所として整えさせた。

後に寛政の改革をへて、幕府が直接運営する昌平坂学問所となった。

参考
史跡湯島聖堂 昌平坂学問所|史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

林鳳岡(はやしほうこう)
林鳳岡(はやしほうこう)

1645年 - 1732年

儒学者。

上野不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭(湯島聖堂の学問所の長官)に任じられた。

前田綱紀(まえだつなのり)
前田綱紀(まえだつなのり)

1643年 - 1724年

加賀藩の大名。

学問振興のため、木下順庵・稲生若水の両名を招聘し、徳川光圀や池田光政らとともに、近世前期の名君としても知られている。

稲生若水(いのうじゃくすい)
稲生若水(いのうじゃくすい)

1655年 - 1715年

本草学者。

加賀藩主に仕えた。

ケンペル
ケンペル

1651年 - 1716年

1690年から1692年に日本に滞在したドイツ人医師。

『日本誌』を書いた。

『日本誌』
『日本誌』

ケンペルの著作。

『日本誌』の一部が「鎖国論」として抄訳され、「鎖国」という言葉が使用されるようになった。

別子銅山(べっしどうざん)
別子銅山(べっしどうざん)

日本の著名な銅山。

1690年に発見された。

荻原重秀(おぎわらしげひで)
荻原重秀(おぎわらしげひで)

1658年 - 1713年

勘定吟味役。のちに勘定奉行。

金銀鉱山の産出量の減少等によって幕府の財政収入が減じたのをうけ、貨幣改鋳を上申し、それを受けて徳川綱吉は元禄小判を発行した。

宝永噴火の際は、勘定奉行として復旧費用を名目に全国から資金を集めたが、使途不明金が40万両余りあった。

元禄小判(げんろくこばん)
元禄小判(げんろくこばん)

1695年

金銀鉱山の産出量の減少等によって幕府の財政収入が減じたのをうけ、勘定吟味役の荻原重秀が貨幣改鋳を上申し、それを受けて徳川綱吉が貨幣改鋳を行って金比率が6割以下の元禄小判を発行した。

幕府の収入は増加したが、物価も騰貴した。

農業全書(のうぎょうぜんしょ)
農業全書(のうぎょうぜんしょ)

1697年出版。

日本で最初に出版された体系的農書。

堂島米市場(どうじまこめいちば)
堂島米市場(どうじまこめいちば)

1697年頃

元禄年間に大坂堂島に設けられた米市場。

米切手を用いた正米商が行われた。

参考
堂島米市場

西陣織(にしじんおり)
西陣織(にしじんおり)

京都西陣の高級絹織物。

西陣から技術が地方に伝播した結果、江戸時代中期ごろには全国各地に絹織物業が勃興した。

西陣織で有名な場所(にしじんおりでゆうめいなばしょ)
西陣織で有名な場所(にしじんおりでゆうめいなばしょ)

ここらへんです。

京都です。

桐生絹(きりゅうぎぬ)
桐生絹(きりゅうぎぬ)

上野国の桐生で絹織物生産が盛んになった。

足利絹(あしかがぎぬ)
足利絹(あしかがぎぬ)

下野国の足利の両毛地方において絹織物生産が盛んになった。

九十九里浜の鰯漁(くじゅうくりはまのいわしりょう)
九十九里浜の鰯漁(くじゅうくりはまのいわしりょう)

江戸時代、鰯は肥料として需要が増え、鰯漁が盛んになった。特に九十九里浜が有名。

土佐の鰹漁(とさのかつおりょう)
土佐の鰹漁(とさのかつおりょう)

江戸時代中期以降、土佐で鰹漁が盛んになり、鰹節に加工された。

淀屋辰五郎(よどやたつごろう)
淀屋辰五郎(よどやたつごろう)

?年 - 1717年

米市や海運業で成功した大坂の大商人。

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

1653年 - 1725年

浄瑠璃および歌舞伎の作者。『曽根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』などが有名。

『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)
『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)

鄭成功を主人公にした戯曲。

鄭成功が滅亡した明の再興をめざし、日本に援兵を要請したという史実を題材にした作品。

人気を博して長期興行となった。

戯曲の作者は近松門左衛門。

『国姓爺合戦』とも表記する。

尾形光琳(おがたこうりん)
尾形光琳(おがたこうりん)

1658年 - 1716年

画家、工芸家。代表作として「八橋蒔絵螺鈿硯箱」など。

八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)
八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)

尾形光琳の代表作。

参考
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)

友禅染(ゆうぜんぞめ)
友禅染(ゆうぜんぞめ)

江戸時代には、生地に華やかな模様を表す友禅染が流行した。

土屋又三郎(つちやまたさぶろう)
土屋又三郎(つちやまたさぶろう)

? - 1719年

農政家。

1707年に『耕稼春秋』を著した。

耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)
耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)

1707年成立

江戸時代の農書。

土屋又三郎の著。

宝永噴火(ほうえいふんか)
宝永噴火(ほうえいふんか)

1707年

富士山が噴火した。

荻生徂徠(おぎゅうそらい)
荻生徂徠(おぎゅうそらい)

1666年 - 1728年

孔子・孟子の古典に立ち返る古学派の流れを受けた儒学者。

経世論(現実の社会問題を対象とする政治経済論)に道を開いた。

門下に太宰春台など。

古文辞学派(こぶんじがくは)
古文辞学派(こぶんじがくは)

荻生徂徠が創始した学派。

貝原益軒(かいばらえきけん)
貝原益軒(かいばらえきけん)

1630年 - 1714年

福岡藩の儒学者。

京都遊学に際して、木下順庵・稲生若水らと交わり、朱子学や本草学を学ぶ。

福岡においては、宮崎安貞とも交流があり、『農業全書』の刊行にも貢献する。

その他、医学や教育に関する多くの啓蒙書を出版し、さらには、『黒田家譜』・『筑前国続風土記』を編纂するなど、その業績は多岐に及ぶ。

『大和本草』を著したことで有名。

大和本草(やまとほんぞう)
大和本草(やまとほんぞう)

1709年刊行。

貝原益軒が、日本の動物・植物・鉱物などを研究し、独自の分類を施した画期的な書物。

徳川家宣(とくがわいえのぶ)
徳川家宣(とくがわいえのぶ)

1662年 - 1712年

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)。

新井白石の忠言により朝鮮からの国書における将軍の表記を『日本国大君殿下』から『日本国王』に改めさせた。

徳川家宣のときに閑院宮家が創設された。

新井白石(あらいはくせき)
新井白石(あらいはくせき)

1657年 - 1725年

旗本。政治家。朱子学者。徳川家宣の侍講。

徳川家宣に取り立てられて正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。

財政を圧迫するとして朝鮮通信使への応接を簡素化した。

国王より低い意味を持つ大君の表記を嫌い、朝鮮国書の将軍の表記を『日本国大君』から『日本国王』に改めさせた。

日本国大君から日本国王に改めさせる(にほんこくたいくんからにほんこくおうにあらためさせる)
日本国大君から日本国王に改めさせる(にほんこくたいくんからにほんこくおうにあらためさせる)

新井白石は国王より低い意味を持つ大君の表記を嫌い、朝鮮国書の将軍の表記を「日本国大君」から「日本国王」に改めさせ、将軍の地位を、国を代表する権力者として明確にした。

シドッチ
シドッチ

1668年 - 1714年

イタリア人宣教師。

1708年に屋久島に潜入して捕らえられた。

新井白石はシドッチとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。

シドッチが潜入したのは屋久島(シドッチがせんにゅうしたのはやくしま)
シドッチが潜入したのは屋久島(シドッチがせんにゅうしたのはやくしま)

シドッチが潜入したのは屋久島です。

閑院宮家(かんいんのみやけ)
閑院宮家(かんいんのみやけ)

1710年、徳川家宣の時にそれまでの三宮家に加えて新たに創設された宮家、世襲親王家。

読史余論(とくしよろん)
読史余論(とくしよろん)

1712年

徳川家宣に行った日本史の講義案を元に、新井白石が1712年に『読史余論』を著した。

徳川政権の正統性を述べた史論書。

正徳小判(しょうとくこばん)
正徳小判(しょうとくこばん)

1714年

新井白石は物価の騰貴を抑えるため、慶長小判と同じ程度になるまで金含有量を増やした正徳小判を鋳造させた。

海舶互市新例(かいはくごししんれい)
海舶互市新例(かいはくごししんれい)

1715年

新井白石は海舶互市新令(長崎新令)を発布して貿易額の制限をはかり、金銀の海外流出を防ごうとした。

渋川春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい)
渋川春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい)

1639年 - 1715年

天文歴学者。囲碁棋士。神道家。

朝廷の暦が不正確になったとしてこれを改定し貞享歴を作成した。

その後幕府の天文方となった。

貞享暦(じょうきょうれき)
貞享暦(じょうきょうれき)

初めて日本人渋川春海の手によって編纂された和暦。1685年から1755年までの70年間使用された。

千歯扱(せんばこき)
千歯扱(せんばこき)

江戸中期に発明された脱穀用農具。

野田の醤油(のだのしょうゆ)
野田の醤油(のだのしょうゆ)

江戸で消費される醤油の大半は、大坂から江戸に船で運ばれる下り物だったが、18世紀になると江戸の周辺でも醤油が製造されるようになった。最初に勃興したのは銚子の醤油業だったが、のちに同じ下総国の野田の醤油業が台頭し、地の利を生かして銚子を凌駕した。

灘の酒(なだのさけ)
灘の酒(なだのさけ)

灘と言えば酒です。

江戸の人口(えどのじんこう)
江戸の人口(えどのじんこう)

18世紀前半における江戸の人口は、100万人前後と推定されている。

徳川吉宗(とくがわよしむね)
徳川吉宗(とくがわよしむね)

1684年 - 1751年

江戸幕府第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。

将軍就任以前は紀州藩第5代藩主を務めた。

享保の改革を行った。

享保の改革(きょうほうのかいかく)
享保の改革(きょうほうのかいかく)

徳川吉宗の主導で行われた幕政改革。「江戸時代の三大改革」の一つ。

  • 目安箱の設置
  • 実学重視の立場から漢訳洋書の輸入制限を緩和
  • 公事方御定書
  • 新田開発の奨励
  • 貧民救済を目的とした小石川養生所の設置
  • 相対済し令
  • 定免法の採用
漢訳洋書の輸入制限の緩和(かんやくようしょのゆにゅうせいげんのかんわ)
漢訳洋書の輸入制限の緩和(かんやくようしょのゆにゅうせいげんのかんわ)

徳川吉宗は享保の改革の一環として実学重視の立場から漢訳洋書の輸入制限を緩和した。

足高の制(たしだかのせい)
足高の制(たしだかのせい)

幕府の役職につく場合に、役高が不足していた場合は、在職中に不足分を支給する制度。

その支給分のことを足高という。

徳川吉宗は足高を設けて優秀な旗本の登用を容易にし、財政再建を始め諸改革を行った。

上げ米(あげまい)
上げ米(あげまい)

財政難に対応するための幕府の政策。

諸大名が参勤交代で江戸に滞在する期間を半分に短縮する代わりに、大名に対して領知高1万石につき米100石の献上を命じた。

定免法(じょうめんほう)
定免法(じょうめんほう)

豊作、凶作に関わらず、一定期間、年貢率を固定する年貢徴収法。

年貢の安定と増徴を図って広く導入された。

目安箱(めやすばこ)
目安箱(めやすばこ)

武士身分ではない庶民が国政や民政についての意見を建白できる制度のために、評定所などに設置された、訴状を入れる箱。

新田開発奨励(しんでんかいはつしょうれい)
新田開発奨励(しんでんかいはつしょうれい)

1722年に新田開発奨励の高札が江戸に掲げられた。

井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)
井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)

1654年 - 1738年

治水家。

見沼新田を開発した。

参考
見沼代用水を築いた井澤弥惣兵衛為永:農林水産省

見沼新田(みぬましんでん)
見沼新田(みぬましんでん)

1727年

井沢弥惣兵衛が用水路とともに開発した新田。

参考
見沼代用水|見沼たんぼってなに?|見沼たんぼのホームページ

徳川吉宗の日光社参(とくがわよしむねのにっこうしゃさん)
徳川吉宗の日光社参(とくがわよしむねのにっこうしゃさん)

1728年

日光社参とは、家康を祀る東照宮と家光を祀る大猷院を詣でる行事のこと。

徳川吉宗の時代に諸大名を動員して実施された。

大岡忠相(おおおかただすけ)
大岡忠相(おおおかただすけ)

1677年 - 1752年

享保の改革で登用された人物。

町奉行として江戸市制の整備に尽力した後、寺社奉行を務め、大名になった。

『公事方御定書』を編纂した。

町火消(まちびけし)
町火消(まちびけし)

江戸市制の整備として大岡忠相によって町方に設置された町人による消防組織。

定火消とともに江戸の消防を担った。

公事方御定書(くじかたおさだめがき)
公事方御定書(くじかたおさだめがき)

犯罪と裁判に関する江戸幕府の基本法典。1742年に仮完成した。

小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)
小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)

目安箱の制度を利用した江戸の町医者の建白により、幕府の小石川薬園内に設置された無料の医療施設。

貧民に医療を施した。

株仲間(かぶなかま)
株仲間(かぶなかま)

商人・職人らが共同の利権を守るために結成した同業組合。

幕府・諸藩から営業の独占権を与えられた。

享保の改革の際に、江戸と大坂の株仲間が公認された。

相対済し令(あいたいすましれい)
相対済し令(あいたいすましれい)

金銀の貸し借りに関する問題は訴訟ではなく当事者同士で解決するよう命じた法令。

旗本・御家人と札差との間に訴訟が激増したことに対応したもの。

幕府は訴訟を受け付けないことに決めたが、債権債務は消滅しないとした。

また、田畑を担保にした金銭貸借訴訟については、受理することとした。

金公事(かねくじ)
金公事(かねくじ)

金公事とは無担保で利子付きの金銀貸借や売掛金をめぐる争いのこと。

相対済し令では、この金公事を禁じた。

札差(ふださし)
札差(ふださし)

江戸時代の金融商人。

旗本・御家人に支給される俸禄米 (蔵米)を代理人として受け取り、それを売却して現金化することを請け負った。

旗本・御家人に対して蔵米を担保に貸金を行うことで蓄財した。

札差が集中した地区は、幕府の米蔵があったー帯であったことから蔵前と呼ばれた。

懐徳堂(かいとくどう)
懐徳堂(かいとくどう)

1724年

大坂町人によって大坂に作られた学問所。

ここから町人出身の学者も生まれた。

参考
懐徳堂を知る[懐徳堂の歴史]/懐徳堂記念会/大阪文化と商道徳の育成・大阪大学の源流・現代に生きる古典の力

懐徳堂は大坂町人によって作られる(かいとくどうはおおさかちょうにんによってつくられる)
懐徳堂は大坂町人によって作られる(かいとくどうはおおさかちょうにんによってつくられる)

懐徳堂は大坂町人によって作られた。

堂島米市場の公認(どうじまこめいちばのこうにん)
堂島米市場の公認(どうじまこめいちばのこうにん)

1730年

徳川吉宗は堂島米市場を公認した。

太宰春台(だざいしゅんだい)
太宰春台(だざいしゅんだい)

1680年 - 1747年

儒学者。荻生徂徠の門下。

著作に『経済録』『経済録拾遺』など。

経済録拾遺(けいざいろくしゅうい)
経済録拾遺(けいざいろくしゅうい)

太宰春台の著作。

土地の特産物を販売することで支配者が利益を得るために、藩専売制を唱えた。

巡礼(じゅんれい)
巡礼(じゅんれい)

江戸時代の後半になると、人々は生活圏を越えて歩き回るようになるが、このうち諸仏や神々を訪ね歩く旅、またはその人達のことを巡礼と呼ぶ。

銅座(どうざ)
銅座(どうざ)

1738年

銅の精錬・売買をつかさどる座である銅座が設置された。

石田梅岩(いしだばいがん)
石田梅岩(いしだばいがん)

1685年 - 1744年

心学をおこし、庶民の生活倫理を説いた。

青木昆陽(あおきこんよう)
青木昆陽(あおきこんよう)

1698年 - 1769年

江戸の人。

オランダ語を学ぶとともに、飢饉対策として甘藷(かんしょ:サツマイモのこと)の栽培の普及につとめた。

竹内式部(たけのうちしきぶ)
竹内式部(たけのうちしきぶ)

1712年 - 1767年

国学者。

宝暦事件で追放刑となる。

宝暦事件(ほうれきじけん)
宝暦事件(ほうれきじけん)

1758年

竹内式部が公家たちに尊王論を説き、追放刑となった事件。

年号の覚え方は「イナゴは(1758)美味しい、宝暦事件」です。

明和事件(めいわじけん)
明和事件(めいわじけん)

1767年

幕府を批判し尊王論を説いた山県大弐が死罪となった事件。

年号の覚え方は「非難(17)むな(67)しい明和事件」です。

山県大弐(やまがただいに)
山県大弐(やまがただいに)

1725年 - 1767年

尊王斥覇を説いた兵学者。

明和事件で死刑となった。

細川重賢(ほそかわしげかた)
細川重賢(ほそかわしげかた)

1720年 - 1785年

熊本藩主。

藩政改革を進めた。

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)

1740年 - 1813年

第117代天皇(在位:1762年 - 1770年)。女帝。

江戸時代二度目の女帝 (女性天皇)。

蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)

1750年 - 1797年

江戸時代の出版業者。

耕書堂を開業した。

田沼意次(たぬまおきつぐ)
田沼意次(たぬまおきつぐ)

1719年 - 1788年

大名。江戸幕府老中。

田沼の幕政登場前、年貢率の引き上げは既に限界に達していたため、意次は農業政策よりも商業・流通政策を重んじ、幕府財政の増収を図ろうとした。

俵につめた海産物(俵物)を積極的に輸出させた。

田沼意次が株仲間を積極的に公認する(たぬまおきつぐがかぶなかまをせっきょくてきにこうにんする)
田沼意次が株仲間を積極的に公認する(たぬまおきつぐがかぶなかまをせっきょくてきにこうにんする)

享保の改革の際は江戸と大阪で株仲間を公認していたが、田沼意次は都市のみならず農村にまで積極的に公認し、運上・冥加の増収を図った。

明和五匁銀(めいわごもんめぎん)
明和五匁銀(めいわごもんめぎん)

1765年発行。

計数貨幣の金貨と秤量貨幣の銀貨の統合を目指して、計数貨幣として江戸時代に最初に発行された銀貨。

ただし、本格的に流通したのはこの後発行された南鐐二朱銀。

賀茂真淵(かものまぶち)
賀茂真淵(かものまぶち)

1697年 - 1769年

国学者。

『国意考』を記した。

国意考(こくいこう)
国意考(こくいこう)

1765年成立。

賀茂真淵が記した。

田沼意次が銅座を幕府の専売のもとにおいた(たぬまおきつぐがどうざをばくふのせんばいのもとにおいた)
田沼意次が銅座を幕府の専売のもとにおいた(たぬまおきつぐがどうざをばくふのせんばいのもとにおいた)

田沼意次は幕府の専売のもとに銅座を設けた。

南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)
南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)

1772年発行。

田沼時代に金貨の代わりに通用することを目的として、大量に鋳造された銀貨。

印旛沼(いんばぬま)
印旛沼(いんばぬま)

田沼意次は下総国の印旛沼の新田開発に取り組んだ。

池大雅(いけのたいが)
池大雅(いけのたいが)

1723年 - 1776年

文人画家。

1771年に与謝蕪村とともに『十便十宜図』を作成した。

与謝蕪村(よさぶそん)
与謝蕪村(よさぶそん)

1716年 - 1783年

俳人。画家。

1771年に池大雅とともに『十便十宜図』を作成した。

十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)
十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)

1771年

池大雅と与謝蕪村が合作した画帖。

清の文人が詠んだ詩を描写したもの。

造士館(ぞうしかん)
造士館(ぞうしかん)

1773年、島津重豪によって設立された薩摩藩の藩校。

杉田玄白(すぎたげんぱく)
杉田玄白(すぎたげんぱく)

1733年 - 1817年

藩医。

1774年に前野良沢とともに『解体新書』を刊行する。

1815年には『蘭学事始』を刊行。

前野良沢(まえのりょうたく)
前野良沢(まえのりょうたく)

1723年 - 1803年

藩医。

1774年に杉田玄白とともに『解体新書』を刊行する。

解体新書(かいたいしんしょ)
解体新書(かいたいしんしょ)

1774年刊行。

ドイツ人医師クルムスの医学書をオランダ語訳した『ターヘル=アナトミア』を日本で翻訳した書。

著者は杉田玄白と前野良沢。

恋川春町(こいかわはるまち)
恋川春町(こいかわはるまち)

1744年 - 1789年

『金々先生栄花夢』を描いた人。

金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)
金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)

恋川春町が描いた黄表紙(風刺滑稽の絵入り小説)。

江戸で一稼ぎしようと田舎から出てきた男の夢物語。

平賀源内(ひらがげんない)
平賀源内(ひらがげんない)

1728年 - 1780年

学者。芸術家。発明家。

寒暖計やエレキテル・火院布などを開発した。

喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)

1753年? - 1806年

多色刷の浮世絵版画(錦絵)の絵師として活躍した。

錦絵(にしきえ)
錦絵(にしきえ)

版画は墨一色で始まり、やがて色を重ね刷りする技術が生まれ、18世紀後半になると錦絵と呼ばれる多色刷版画の技法が確立した。

光格天皇(こうかくてんのう)
光格天皇(こうかくてんのう)

1771年 - 1840年

第119代天皇(在位1780年 - 1817年)。

1789年に尊号一件と呼ばれる事件を起こす。

工藤平助(くどうへいすけ)
工藤平助(くどうへいすけ)

1734年 - 1801年

仙台藩の藩医。経世論家。

『赤蝦夷風説考』を著す。

赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)
赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)

工藤平助が書いた著書。

1781年頃刊行。

平助はこの著書の中で蝦夷地の鉱山を開発し、その金銀でロシアと交易すべきことを提言した。

それに刺激されて、田沼意次は蝦夷地開発のための調査団を派遣した。

天明の飢饉(てんめいのききん)
天明の飢饉(てんめいのききん)

1782年 - 1787年

全国的大飢饉。

浅間山の大噴火も発生し、全国各地で一揆や打ちこわしを誘発し、幕府に大きな衝撃を与えた。

浅間山大噴火(あさまやまだいふんか)
浅間山大噴火(あさまやまだいふんか)

天明3年(1783年)に浅間山が大噴火した。

徳川家斉(とくがわいえなり)
徳川家斉(とくがわいえなり)

1773年 - 1841年

江戸幕府第11代将軍(在職:1787年 - 1837年)。

松平定信による寛政の改革。

異国船打払令。

大坂の打ちこわし(おおさかのうちこわし)
大坂の打ちこわし(おおさかのうちこわし)

天明7年(1787年)に大坂で打ちこわしが発生した。

江戸の打ちこわし(えどのうちこわし)
江戸の打ちこわし(えどのうちこわし)

天明7年(1787年)に江戸で打ちこわしが発生した。

亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)
亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)

1748年 - 1822年

洋風画家、銅版画家。

松平定信に取り立てられ、西洋画の技法を用いた作品を書いた。

佐竹義和(さたけよしまさ)
佐竹義和(さたけよしまさ)

1775年 - 1815年

秋田藩主。

天明の大飢饉の後、倹約を励行し、特産物の生産を奨励した。

松平定信(まつだいらさだのぶ)
松平定信(まつだいらさだのぶ)

1759年 - 1829年

大名。老中。

徳川吉宗の孫。

天明の飢饉後の幕政を立て直すために1787年から1793年に寛政の改革を行った。

金銭の利益を追い求める田沼政治を批判し、農業を政治の根本とする政策を進めた。

江戸では町入用(町人負担の町の経費)を減らし、その減額分の7割を積み立てる制度を設けた。

寛政の改革(かんせいのかいかく)
寛政の改革(かんせいのかいかく)

1787年 - 1793年

松平定信が老中の時に主導して行った幕政改革。三大改革の一つ。緊縮財政、風紀取締による幕府財政の安定化を目指した。が、役人だけでなく庶民にも倹約を強要したこと、風紀取締による経済・文化の停滞などもあり定信に対する信頼の低下、庶民の反発により定信は失脚した。定信失脚後もその意思を継ぐ者たちが、この改革の方針を幕政に引き継いだ。

棄捐令(きえんれい)
棄捐令(きえんれい)

寛政の改革の一環。

札差の旗本・御家人に対する債権の破棄・軽減を命じる法令。

札差債権のうち、1784年以前のものはすべて破棄させるとともに、それ以降のものは利率を年利6%として年賦で決済することとした。

経済的に困窮したり、風紀を乱したりする旗本・御家人への対策のために松平定信が発した救済策。

人足寄場(にんそくよせば)
人足寄場(にんそくよせば)

江戸の治安を維持するために、寛政の改革で石川島に設けられた社会的更生施設。

無宿人を強制的に収容し、技術を身につけ職業をもたせようとした。

旧里帰農令(きゅうりきのうれい)
旧里帰農令(きゅうりきのうれい)

1790年

寛政の改革の一政策として松平定信が出した。

都市に流入した日稼ぎの貧しい農民の帰村を促し、農村人口の確保につとめた。

囲米(かこいまい)
囲米(かこいまい)

非常時に備えて米を備蓄すること。

松平定信は凶作や災害に備えた米穀・金銭の貯蓄のために、1万石につき50石の割合での「囲米」を大名たちに命じ社倉・義倉の設置を進め、米穀を備蓄させた。

七分積金(しちぶつみきん)
七分積金(しちぶつみきん)

寛政の改革の一環。

災害時の貧民の救済などに当てるため、町入用(町費)を節約して積み立てる制度。

江戸町会所(えどまちかいしょ)
江戸町会所(えどまちかいしょ)

1792年設置。

七分積金で積み立てられた米・金の管理運営をした機関。

松平定信が朱子学を奨励する(まつだいらさだのぶがしゅしがくをしょうれいする)
松平定信が朱子学を奨励する(まつだいらさだのぶがしゅしがくをしょうれいする)

松平定信は正学として朱子学を奨励し、学力試験を実施した。

この試験は人材登用の参考にもされ、大田南畝は勘定所の役人に登用された。

高橋景保も成績優秀者であった。

大田南畝(おおたなんぽ)
大田南畝(おおたなんぽ)

1749年 - 1823年

文人。

狂歌を始め文芸界で活躍し、町人たちとも親交があった。

山東京伝も親交のあったうちの一人である。

勘定所の役人に登用された。

高橋景保(たかはしかげやす)
高橋景保(たかはしかげやす)

1785年 - 1829年

天文方の役人として活躍。

洒落本の取り締まり(しゃれぼんのとりしまり)
洒落本の取り締まり(しゃれぼんのとりしまり)

洒落本とは、主に遊里((江戸時代の)風俗店が集まってる地域)での遊びについて書かれたガイド本。寛政の改革で取り締まられた。

山東京伝(さんとうきょうでん)
山東京伝(さんとうきょうでん)

1761年 - 1816年

洒落本作者。

『仕懸文庫』などを著したことによって、寛政の改革における出版統制により処罰を受けた。

林子平(はやししへい)
林子平(はやししへい)

1738年 - 1793年

経世論家。「寛政の三奇人」の一人。

『海国兵談』を出版した。

『海国兵談』(かいこくへいだん)
『海国兵談』(かいこくへいだん)

1787年から1791年に渡って刊行された、全16巻からなる政論書。林子平によって書かれた。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容。

大槻玄沢(おおつきげんたく)
大槻玄沢(おおつきげんたく)

1757年 - 1827年

蘭学者。

1788年に『蘭学階梯』を著した。

蘭学階梯(らんがくかいてい)
蘭学階梯(らんがくかいてい)

1788年

大槻玄沢の著。

蘭学入門書。

尊号一件(そんごういっけん)
尊号一件(そんごういっけん)

1789年

光格天皇が皇位についていない父に太上天皇(上皇)の称号を送りたいと幕府に打診したが、松平定信が拒否して実現しなかった事件。

ラクスマン
ラクスマン

1766年 - ?

ロシア使節。

1792年に漂流民の大黒屋光太夫をともなって根室に来航し通商を求めたが、松平定信に断られて帰国した。

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)

1751年 - 1828年

ロシアに漂流した日本人。

1792年にラクスマンに連れられて日本に帰国した。

塙保己一(はなわほきいち)
塙保己一(はなわほきいち)

1746年 - 1821年

国学者。

1793年に和学講談所を開設する。

和学講談所(わがくこうだんしょ)
和学講談所(わがくこうだんしょ)

塙保己一が1793年に開設した学問所。

宇田川玄随(うだがわげんずい)
宇田川玄随(うだがわげんずい)

1755年 - 1797年

津山藩医。

1796年に『西説内科撰要』を著した。

西説内科撰要(せいせつないかせんよう)
西説内科撰要(せいせつないかせんよう)

1796年刊行。

宇田川玄随が著した、オランダの内科書の翻訳。

稲村三伯(いなむらさんぱく)
稲村三伯(いなむらさんぱく)

1758年 - 1811年

蘭学者。

ハルマの蘭仏辞典を基に1796年に日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。

ハルマ和解(はるまわげ)
ハルマ和解(はるまわげ)

1796年刊行。

蘭学者。

稲村三伯らによって編纂された日本最初の蘭和辞典。

昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)

1797年

湯島聖堂が、幕府が直接運営する教育機関「昌平坂学問所」になった。

参考
史跡湯島聖堂 昌平坂学問所|史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

本居宣長(もとおりのりなが)
本居宣長(もとおりのりなが)

1730年 - 1801年。

国学者。文献学者。医師。

『古事記』の研究に取り組み、『古事記伝』を著した。

古事記伝(こじきでん)
古事記伝(こじきでん)

1764年~1798年の著。

国学者の本居宣長の『古事記』全編にわたる注釈書。

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)
近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)

1771年 - 1829年

北方探検家。

海防上の必要から、1798年に幕府は近藤重蔵らに択捉島の探査を行わせた。

年号の覚え方は『「いーな(17)?詳(98)しく調べてこい」近藤重蔵択捉探査』です。

択捉島の場所(えとろふとうのばしょ)
択捉島の場所(えとろふとうのばしょ)

1798年

海防上の理由から、1798年に幕府は近藤重蔵らに択捉島の探査を行わせた。

上杉治憲(うえすぎはるのり)
上杉治憲(うえすぎはるのり)

1751年 - 1822年

米沢藩主。

藩政改革を進めた。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

1765年 - 1831年

戯作者。絵師。

『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)
東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)

1802年から1814年にかけて初刷りされた十返舎一九の滑稽本。

「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意。

主人公の弥次郎兵衛と喜多八、通称『弥次喜多』による珍道中が主なストーリー。

レザノフ
レザノフ

1764年 - 1807年

ロシア帝国の外交官。

通商関係の樹立を求めて1804年に長崎に来航した。

「鎖国以前から関係をもつ国とのみ通交し、その他の国々とは新たに通交しない」という国法を理由に拒絶されて1805年に長崎を去った。

高橋景保がレザノフの国書を翻訳する(たかはしかげやすがレザノフのこくしょをほんやくする)
高橋景保がレザノフの国書を翻訳する(たかはしかげやすがレザノフのこくしょをほんやくする)

高橋景保がレザノフが持参した国書を翻訳した。

関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)
関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)

1805年

江戸幕府が関東農村の治安悪化に対応するために設置した組織。

ロシア軍艦蝦夷地襲撃事件(ロシアぐんかんえぞちしゅうげきじけん)
ロシア軍艦蝦夷地襲撃事件(ロシアぐんかんえぞちしゅうげきじけん)

通商を拒否されたレザノフの部下が中心となり、ロシア軍艦によって1806年に樺太、1807年に択捉島・利尻島を攻撃した事件。

蝦夷地直轄(えぞちちょっかつ)
蝦夷地直轄(えぞちちょっかつ)

1807年

ロシアとの間に軍事的緊張が高まるなか、幕府は全蝦夷地を直轄地とした。

年号の覚え方は「人は(18)礼(0)無(7)く蝦夷地直轄」です。

フェートン号事件(ふぇーとんごうじけん)
フェートン号事件(ふぇーとんごうじけん)

1808年

鎖国体制下の日本でイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎湾内に侵入した事件。

ナポレオン戦争の余波が日本にまで及んだもの。

式亭三馬(しきていさんば)
式亭三馬(しきていさんば)

1776年 - 1822年

滑稽本作者。

『浮世風呂』を書いた。

浮世風呂(うきよぶろ)
浮世風呂(うきよぶろ)

1809年 - 1813年

江戸の湯屋を舞台にした滑稽本。

式亭三馬が書いた。

ゴローニン事件(ごろーにんじけん)
ゴローニン事件(ごろーにんじけん)

1811年、ロシア軍艦艦長のゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件。

対抗手段として副艦長に拿捕されカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件は解決し、ゴローニンらは無事ロシアへ帰国し、高田屋嘉兵衛も日本へ戻った。

ゴローウニン事件ともいう。

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)
高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

1769年 - 1827年

蝦夷地での交易を請け負った商人。

ゴローニン事件でロシア人に捕まりロシアのカムチャツカに連行・抑留されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。

蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)
蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)

1811年

高橋景保の建議により設置された蘭書翻訳局。

のちの蕃書調所。

杉田玄白が『蘭学事始』を書く(すぎたげんぱくが『らんがくことはじめ』をかく)
杉田玄白が『蘭学事始』を書く(すぎたげんぱくが『らんがくことはじめ』をかく)

1815年

杉田玄白が『蘭学事始』を書いた。

蘭学事始(らんがくことはじめ)
蘭学事始(らんがくことはじめ)

1815年

杉田玄白が書いた書。

『解体新書』翻訳の苦心談。

平田篤胤(ひらたあつたね)
平田篤胤(ひらたあつたね)

1776年 - 1843年

本居宣長死後の門人。

復古神道を大成した。

復古神道(ふっこしんとう)
復古神道(ふっこしんとう)

本居宣長、平田篤胤の神道説。

咸宜園(かんぎえん)
咸宜園(かんぎえん)

1817年

儒学者広瀬淡窓が豊後日田で開いた私塾。

広瀬淡窓(ひろせたんそう)
広瀬淡窓(ひろせたんそう)

1782年 - 1856年

儒学者。

豊後日田で私塾である咸宜園を開いた。

小林一茶(こばやしいっさ)
小林一茶(こばやしいっさ)

1763年 - 1827年

俳人。

村に生きる人々の生活を俳句に詠み、庶民の主体性を打ち出した。

代表作は『おらが春』。

『おらが春』(おらがはる)
『おらが春』(おらがはる)

1819年成立。

小林一茶の徘書。

会沢安(あいざわやすし)
会沢安(あいざわやすし)

1782年 - 1863年

水戸学者。

会沢正志斎(あいざわせいしさい)とも呼ばれる。

藩主徳川斉昭の藩政改革に尽力。

著書「新論」で尊王攘夷論を説いた。

新論(しんろん)
新論(しんろん)

1825年に書き上げられた。

会沢正志斎が書いた著書。

尊王攘夷論を説いた。

二宮尊徳(にのみやそんとく)
二宮尊徳(にのみやそんとく)

1787年 - 1856年

経世家、農政家、思想家。

こんにちは。学校にでてくるオバケ「二宮金次郎」として有名な二宮尊徳です。家計がヤバい人や、経済がヤバい村を「勤労(真面目に賢く働こう)」「分度(収入の一部で生活し、残りは未来に投資しよう)」「推譲(分度で生み出した余剰の一部を皆で出し合って公共投資に使用しよう)」の三軸を中心とした報徳仕法という方法で立て直すのが得意です。

入浜式塩田(いりはましきえんでん)
入浜式塩田(いりはましきえんでん)

「塩田(えんでん)」とは、大量の海水から水分を蒸発させ、塩だけを取り出すために用いられる場所、および施設のこと。

江戸時代になると、それまでの揚浜式塩田(あげはましきえんでん)という製塩法から入浜式塩田という潮の干満を利用する方法が開発され、大幅な労力の軽減が実現した。

瀬戸内海沿岸を中心に入浜式塩田が発達した。

日本におけるマニュファクチュア
日本におけるマニュファクチュア

マニュファクチュアとは、地主や商人が工場を設け、そこに賃金労働者を集め、それぞれの工程を分業や協業を行い、多くの人員を集めてより効率的に生産を行う方式のこと。日本語では工場制手工業と訳される。

日本においては1830年から1843年には大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生など北関東の絹織物業において既に行われていたと考えられる。

村方騒動(むらかたそうどう)
村方騒動(むらかたそうどう)

年貢や諸負担の賦課方法などをめぐって、百姓が村役人の不正を領主に訴えることを村方騒動と言った。

江戸時代後期には村方騒動が頻発した。

高島秋帆(たかしましゅうはん)
高島秋帆(たかしましゅうはん)

1798年 - 1866年

砲術家。

長崎生まれ。洋式砲術を学び、高島流砲術の創始した。幕府にその砲術を伝授した。

伊能忠敬(いのうただたか)
伊能忠敬(いのうただたか)

1745年 - 1818年

商人。測量士。

日本全国を測量して大日本沿海輿地全図を作成した。

大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)

1821年完成。

伊能忠敬が中心となって作成した日本全土の地図。

国訴(こくそ)
国訴(こくそ)

強訴は処罰の対象とされたが、他方では合法的な訴願もさかんになされ、19世紀には畿内で広域の村々の連合による訴願運動である国訴が起こった。

農具便利論(のうぐべんりろん)
農具便利論(のうぐべんりろん)

1822年

農具の紹介と利用の推奨が書かれた書。

著者は大蔵永常。

大蔵永常(おおくらながつね)
大蔵永常(おおくらながつね)

1768年 - ?

『農具便利論』を書いた人。

曲亭馬琴(きょくていばきん)
曲亭馬琴(きょくていばきん)

1767年 - 1848年

読本作者。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家。明治以降には滝沢馬琴とも呼ばれるようになった。

代表作に『南総里見八犬伝』。

『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)
『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)

1814年に刊行が開始され、1842年に完結した全98巻、106冊の大長編読本。著者は曲亭馬琴。

藤田東湖(ふじたとうこ)
藤田東湖(ふじたとうこ)

1806年 - 1855年

水戸学者。

徳川斉昭の側用人として藩政改革に当たる。

尊王思想を説いた。

シーボルト
シーボルト

1796年 - 1866年

ドイツの医師。博物学者。本名フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。

1823年に鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本当はドイツ人だが、オランダ人と偽った。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。

鳴滝塾(なるたきじゅく)
鳴滝塾(なるたきじゅく)

1824年

シーボルトが開いた医学塾。

西洋医学などの講義をおこなった。

異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)
異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)

1825年

江戸幕府が発した外国船追放令。

フェートン号事件以降もイギリス船を始め外国船の渡来があいつぎ、船員の上陸事件も起こったため、それに対応したもの。

日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。上陸外国人については逮捕を命じている。

海峡植民地(かいきょうしょくみんち)
海峡植民地(かいきょうしょくみんち)

1826年

イギリスがマレー半島に築いた植民地の事。

ペナン、マラッカ、シンガポールからなる。

地図に書かれている位置も、左からペナン、マラッカ、シンガポールです。

海峡植民地という言葉が問われる問題は日本史には出ませんが、イギリスが支配している植民地の場所としてシンガポールの場所を問う地図問題が2015年の日本史のセンター試験で出題されたことがあります。

シーボルト事件
シーボルト事件

1828年

シーボルトが帰国の際に国禁である日本地図などを海外に持ち出そうとして発覚した事件。

シーボルトは翌年国外追放となり、多数の関係者も処罰された。

高橋景保やシーボルト事件に関わって獄死する(たかはしかげやすがシーボルトじけんにかかわってごくしする)
高橋景保やシーボルト事件に関わって獄死する(たかはしかげやすがシーボルトじけんにかかわってごくしする)

1829年

高橋景保はシーボルトに日本地図を渡し、シーボルト事件で関係者として捕らえられ獄死した。

歌川広重(うたがわひろしげ)
歌川広重(うたがわひろしげ)

1797年 - 1858年

浮世絵師。

『東海道五十三次』『名所江戸百景』が有名。

名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)
名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)

浮世絵。

歌川広重の晩年の代表作。

天保の飢饉(てんぽうのききん)
天保の飢饉(てんぽうのききん)

1833年 - 1839年

1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。江戸三大飢饉の一つ。

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

1793年 - 1837年

陽明学者。大坂町奉行組与力。

天保の飢饉に際し大坂の窮民救済に奔走し、民衆が米価の高騰に苦しむなか、幕政を批判して1837年に同志とともに乱を起こした(大塩の乱)が鎮圧され、自殺した。

大塩の乱の起きた年、1837年の覚え方は「嫌味な(1837)奴らをぶっ飛ばす!大塩の乱!」です

洗心洞(せんしんどう)
洗心洞(せんしんどう)

大塩平八郎が経営していた私塾。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)
モリソン号事件(もりそんごうじけん)

1837年

日本人漂流民を乗せたアメリカ合衆国の商船「モリソン号」を異国船打払令に基づき日本側が浦賀、および(薩摩の)山川で砲撃した事件。

モリソン号はマカオで保護されていた日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたが、それが分かったのが砲撃の1年後であり、渡辺崋山や高野長英らが幕府の対外政策を批判した。

浦賀の場所(うらがのばしょ)
浦賀の場所(うらがのばしょ)

モリソン号が砲撃された浦賀の場所はここらへん。

寺子屋(てらこや)
寺子屋(てらこや)

庶民の初等教育の場。

江戸時代後期になると至る所に設けられた。

徳川家慶(とくがわいえよし)
徳川家慶(とくがわいえよし)

1793年 - 1853年

江戸幕府第12代将軍(在職:1837年 - 1853年)。

水戸藩主の徳川斉昭に戊戌封事を受ける。

水野忠邦に政治改革を実施させ、水野忠邦の失脚後は阿部正弘を老中に任用した。

戊戌封事(ぼじゅつふうじ)
戊戌封事(ぼじゅつふうじ)

1838年

大塩の乱やモリソン号事件を受けて、水戸藩主の徳川斉昭が書いた、幕政改革を要求する上申書。

翌年、徳川家慶に提出した。

緒方洪庵(おがたこうあん)
緒方洪庵(おがたこうあん)

1810年 - 1863年

武士、医者、蘭学者。

蘭学や蘭方医を志す者のために、1838年に大坂で適々斎塾(適塾)を開いた。

適々斎塾(てきてきさいじゅく)
適々斎塾(てきてきさいじゅく)

1838年

緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾。

適塾(てきじゅく)ともいう。

渡辺崋山(わたなべかざん)
渡辺崋山(わたなべかざん)

1793年 - 1841年

武士。画家。

1838年に著書「慎機論」(しんきろん)で日本の対外政策を批判し、1839年に蛮社の獄で捕らえられ、めっちゃ怒られた。

慎機論(しんきろん)
慎機論(しんきろん)

モリソン号事件を契機に、渡辺崋山が幕府の対外政策を批判して書いた私文書。

高野長英(たかのちょうえい)
高野長英(たかのちょうえい)

1804年 - 1850年

医者。蘭学者。

モリソン号事件について、1838年に著書「戊戌夢物語」(ぼじゅつゆめものがたり)で幕府の対外政策を批判し、1839年に蛮社の獄で捕らえられ、収監された。

戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)
戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)

モリソン号事件を受けて高野長英が1838年に著した書。

架空の人物による夢の中での問答と言う形式で幕府の対外政策を批判した。

蛮社の獄(ばんしゃのごく)
蛮社の獄(ばんしゃのごく)

1839年

言論弾圧事件。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。

アヘン戦争(あへんせんそう)
アヘン戦争(あへんせんそう)

1840年 - 1842年

清とイギリスの間で行われた戦争。

当時、イギリスは清にアヘンを輸出して儲けていたが、アヘンの蔓延を嫌って清がアヘンの禁輸を行い、それにイギリスが反発して戦争となった。

イギリスが勝った。

天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)
天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)

1842年

アヘン戦争で清が敗北したのを受け、対外紛争を回避するためにそれまでの異国船打払令を撤廃し、来航した外国船には薪水・食料を与えて速やかに退去させるとする薪水給与令を出した。

年号の覚え方は「嫌よ(184)つ(2)よいよマジヤバよ。外国怖い。天保の薪水給与令」です。

均田制(きんでんせい)
均田制(きんでんせい)

土地を平等に分けて均等化する制度・政策。

1842年以降に佐賀藩で行われたものが有名。

水野忠邦(みずのただくに)
水野忠邦(みずのただくに)

1794年 - 1851年

江戸幕府老中。

貨幣経済の発展に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的として1841年から1843年に天保の改革を行った。

天保の改革(てんぽうのかいかく)
天保の改革(てんぽうのかいかく)

1841年 - 1843年

江戸幕府老中の水野忠邦によって行われた改革。

主な改革に「株仲間の解散」がある。

この改革の時期に、風俗を乱す書物を著したとして処罰された人の中に為永春水がいる。

株仲間の解散(かぶなかまのかいさん)
株仲間の解散(かぶなかまのかいさん)

物価高騰の原因が株仲間にあるとして、株仲間による流通の独占を否定し、自由な商取引による物価下落を期待して、天保の改革の一環として株仲間の解散が行われたが、流通に混乱が生じ、反って物価が高騰したため、のちに再興令を出した。

天保の改革でも棄捐令が出る(てんぽうのかいかくでもきえんれいがでる)
天保の改革でも棄捐令が出る(てんぽうのかいかくでもきえんれいがでる)

物価騰貴に苦しむ旗本・御家人を救済するため、天保の改革でも棄捐令が出された。

地方知行の旗本に対する幕府貸付金の半分を免除し、残りを無利息年賦償還とした。

薩摩藩(さつまはん)
薩摩藩(さつまはん)

現在の鹿児島あたりにあった藩。

この時期に諸藩でも改革を行ったが、薩摩藩では巨額の債務を250年賦無利子返済として事実上帳消しにした。

調所広郷(ずしょひろさと)
調所広郷(ずしょひろさと)

1776年 - 1848年

薩摩藩の財政担当家老。

黒砂糖の専売制を強化するなど薩摩藩の財政再建のため藩政改革を行った。

巨額の債務を250年賦無利子返済として事実上帳消しにしたのもこの人。

為永春水(ためながしゅんすい)
為永春水(ためながしゅんすい)

1790年 - 1844年

人情本の作者。

天保の改革の時期に、風俗を乱す書物を著したとして処罰された。

人情本(にんじょうぼん)
人情本(にんじょうぼん)

恋愛ものを扱った小説。

人返しの法(ひとがえしのほう)
人返しの法(ひとがえしのほう)

1843年

老中の水野忠邦はこの法によって貧民の帰村を強制し、農村の再建を図った。

水野忠邦の時代の日光社参(みずのただくにのじだいのにっこうしゃさん)
水野忠邦の時代の日光社参(みずのただくにのじだいのにっこうしゃさん)

1843年

財政難で揺らいだ幕府の威信を誇示するため、水野忠邦は諸大名を動員して日光社参を実施した。

上知令(じょうちれい)
上知令(じょうちれい)

1843年

幕府の財政基盤再建のため、水野忠邦が江戸・大坂十里四方の大名・旗本の知行地(主君が家臣に与え、一定の支配権を認めた領地)を幕府直轄領にしようとした法令。

反対により失敗し、水野忠邦は失脚。天保の改革も頓挫した。

広益国産考(こうえきこくさんこう)
広益国産考(こうえきこくさんこう)

1844年に大蔵永常が原稿を書き終えた、商品作物の栽培・加工による藩・農家の増益を説いた書。

ビッドル
ビッドル

1783年 - 1848年

アメリカの東インド艦隊司令長官。

1846年に浦賀に来航し、幕府に通商を要求したものの拒絶された。

浦賀(うらが)
浦賀(うらが)

神奈川県横須賀市東部の地域。

日本に開国を要求したビッドルやペリーが来航したことで知られる。

徳川家定(とくがわいえさだ)
徳川家定(とくがわいえさだ)

1824年 - 1858年

江戸幕府第13代征夷大将軍(在職:1853年 - 1858年)。

病弱で人前に出るのが苦手だった。

黒船来航(くろふねらいこう)
黒船来航(くろふねらいこう)

1853年7月にペリーが黒船を率いて浦賀にやってきて開国を求めた。

日本はちょうど将軍が病気だったため一年後に来るよう言ったが、半年後の1854年にまたペリーが来て開国を求めた。

脅しに屈した日本は日米和親条約を結び、ついに鎖国が終わる。

ペリー
ペリー

1794年 - 1858年

アメリカの東インド艦隊司令長官。

1853年6月に軍艦4隻を率いて浦賀に現われ日本の開港を求めた。

プチャーチン
プチャーチン

1804年 - 1883年

ロシア極東艦隊司令長官。

1853年7月に長崎に来航し、開国と国境画定を要求した。

1855年に日露和親条約を結んだときのロシア側全権。

阿部正弘(あべまさひろ)
阿部正弘(あべまさひろ)

1819年 - 1857年

江戸幕府の老中首座。

1853年に安政の改革(「大船建造を解禁」「門地・家柄に関わらず、優秀な人材を登用」「(おもに軍備に関しての)近代化政策」「アメリカの開国要求に対して諸藩に意見を求める挙国一致体制」)を行う。

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)
江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)

1801年 - 1855年

伊豆韮山の代官。

外国船の襲来に備えて、江戸湾では75万両の経費をかけ品川沖に人工島を築き砲台を備えた。その献策の中心となった人。

幕府に命じられて反射炉を築造した。築造された反射炉は2015年に韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)として世界文化遺産に登録されている。

反射炉(はんしゃろ)
反射炉(はんしゃろ)

金属の融解・精錬に用いる炉。

江川太郎左衛門が築造した反射炉は2015年に韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)として世界文化遺産に登録されている。

参考
伊豆の国市/韮山反射炉とは

ペリーが再来航する
ペリーが再来航する

1854年に7隻の艦隊を率いてペリーが再来航し、幕府との間で日米和親条約を結んだ。これにより、日本の鎖国政策が終わった。

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)

1854年

江戸幕府が米国使節のペリーと結んだ条約。

神奈川条約とも呼ばれる。

下田箱館の開港などを認めた。

下田・箱館(しもだ・はこだて)
下田・箱館(しもだ・はこだて)

日米和親条約で開港したのは下田と箱館。

下田の場所(しもだのばしょ)
下田の場所(しもだのばしょ)

伊豆半島南部に位置する。

日米和親条約によって開港した場所。

現在の静岡県下田市。

箱館の場所(はこだてのばしょ)
箱館の場所(はこだてのばしょ)

北海道南端の渡島半島南東部に位置する。

日米和親条約によって開港した場所。

現在の北海道函館市。

日露和親条約(にちろわしんじょうやく)
日露和親条約(にちろわしんじょうやく)

1855年

日露通好条約ともいう。

日米和親条約に準じて日本とロシアの間で結ばれた条約。

ロシア側全権はプチャーチン。

下田、箱館、長崎を開港し、長崎は最恵国待遇によりアメリカ・イギリスにも開かれた。

アロー号事件(アローごうじけん)
アロー号事件(アローごうじけん)

清(中国)で起きた事件。

イギリス船籍の『アロー号』を海賊容疑で清が取り締まった際、船に掲げられたイギリス国旗が取り下げられ侮辱されたとイギリスが主張した事件。

これをきっかけに清とイギリス・フランスとの間でアロー戦争が起こった。

パークス
パークス

1828年 - 1885年

広東駐在のイギリス外交官。

アロー号事件がおきたとき清朝の側と協議したものの決裂し、イギリスとフランスが清朝に宣戦布告してアロー戦争が起きた。

パークスは後に日本に駐在し、明治維新にも立ち会った。

井伊直弼(いいなおすけ)
井伊直弼(いいなおすけ)

1815年 - 1860年

譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。

幕末に江戸幕府の大老を務めた。

1858年に勅許を得ず不平等条約である日米修好通商条約に調印したが、その責任を責められた為、ぶち切れて国内の反対勢力を1858年から1859年に渡り粛正した(安政の大獄)。

その反動で1860年に暗殺され(桜田門外の変)た。

ハリス
ハリス

1804年 - 1878年

初代アメリカ駐日総領事。

1856年に下田に来航。

1858年日米修好通商条約を締結した、アメリカ側の人。

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)

1858年

日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。

日本側が不利な不平等条約として知られ、主に「アメリカの領事裁判権を認める」「日本に関税自主権がない」「片務的最恵国待遇」「五つの港の開港(横浜、神戸、箱館、長崎、新潟…覚え方は「よ・こ・は・な・に(横は何?))」)」などがある。

港に関しては、当初「神奈川・長崎・新潟・兵庫」を開港するとされていたが、兵庫の代わりに神戸が開港されることになった。

これによって日本では「外国マジむかつく」「外国ぶったおせ」「外国追い出せ」的な論、すなわち攘夷論(じょういろん)が盛んとなった。

兵庫(ひょうご)
兵庫(ひょうご)

日米修好通商条約では、当初「神奈川・長崎・新潟・兵庫」を開港するとしていたが、兵庫の代わりに神戸が開港された。

参考
日米修好通商条約 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)| 史料編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典

新潟の場所
新潟の場所

日米修好通商条約で開港された新潟の場所はここです。

ちっちゃい島の真横と覚えてください。

最恵国(さいけいこく)
最恵国(さいけいこく)

最恵国待遇が与えられている国のこと。

最恵国待遇とは、A国とB国(最恵国)が結んだ条約よりも、有利な条件でC国がA国と条約を結んだ場合、自動的にB国にもC国と同じ有利な条件が認められること。

踏絵(ふみえ)
踏絵(ふみえ)

聖画像を踏ませてキリスト教徒か否かを調べる方法。

日米修好通商条約にともない、外国人の批判を招きそうなことであったため長崎奉行所は踏絵を中止した。

蕃書調所(ばんしょしらべしょ)
蕃書調所(ばんしょしらべしょ)

蛮書和解御用を1855年に洋学所としたが、安政の大地震で焼失した。

そのため蕃書調所と改称し1856年に九段坂下に設けられ1857年に開校した幕府の洋学の研究教育施設。

ハリスが江戸で滞在する拠点となった。

のちに開成所と改称されていき、近代の大学へと繋がっていった。

ヒュースケン
ヒュースケン

1832年 - 1860年

オランダ人。

下田駐在の初代アメリカ総領事に任命されたハリスの通訳として来日し、1860年に麻布善福寺のアメリカ公使館に帰る途中に暗殺された。

安政の五か国条約
安政の五か国条約

1858年

江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国それぞれと結んだ不平等条約の総称。それぞれ正式名称は日米修好通商条約、日蘭修好通商条約、日露修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約。

日付は違うが、すべて1858年に結ばれた。

安政の大獄(あんせいのたいごく)
安政の大獄(あんせいのたいごく)

1858年 - 1859年

井伊直弼らは勅許をえないまま日米修好通商条約に調印し、将軍を徳川家茂に決定した。安政の大獄は、これらの諸策に反対する者たち100人以上を弾圧した事件である。

徳川斉昭(とくがわなりあき)
徳川斉昭(とくがわなりあき)

1800年 - 1860年

大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。一橋慶喜(徳川慶喜)の父

安政の大獄で蟄居処分を受けた。

吉田松陰(よしだしょういん)
吉田松陰(よしだしょういん)

1830年 - 1859年

武士(長州藩士)、思想家、教育者。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。安政の大獄で捕まり、斬首刑に処された。

橋本左内(はしもとさない)
橋本左内(はしもとさない)

1834年 - 1859年

志士、思想家、越前国福井藩藩士。著書に「啓発録」がある。有能だったが、安政の大獄で斬首刑になった。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)

1860年

3月に大老井伊直弼は桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)
五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)

1860年

幕府は物価統制を図るために生糸・雑穀・水油・呉服・蠟の開港場直送を禁じ、江戸問屋を経由することを発令したが、在郷商人や列国の反対で効果はあがらなかった。

五品江戸廻送令の五品(ごひんえどかいそうれいのごひん)
五品江戸廻送令の五品(ごひんえどかいそうれいのごひん)

五品江戸廻送令の五品とは、生糸(きいと)・雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・呉服(ごふく)・蠟(ろう)のこと。

覚え方はすべての品の最初の文字をとって「キザ見ごろ」です。

咸臨丸(かんりんまる)
咸臨丸(かんりんまる)

幕府の木造軍艦。

1860年に遣米使節の随行艦として初めて太平洋横断に成功した。

その時の艦長は勝海舟。

勝海舟(かつかいしゅう)
勝海舟(かつかいしゅう)

1823年 - 1899年

幕臣。

1860年に咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功した。

のちの江戸無血開城でも活躍する。

安藤信正(あんどうのぶまさ)
安藤信正(あんどうのぶまさ)

1819年 - 1871年

幕末の老中。

井伊直弼の死後、公武合体政策をすすめ孝明天皇の妹である和宮を14代将軍徳川家茂の妻に迎えたが、1862年に襲撃され(坂下門外の変)失脚した。

孝明天皇(こうめいてんのう)
孝明天皇(こうめいてんのう)

1831年 - 1867年

第121代天皇(在位:1846年 - 1866年)。

井伊直弼が日米修好通商条約に調印したことに強く反対した。

この時代、朱子学の影響で「幕府よりも天皇を尊ぼう」という尊王論というのがあった。これがやがて「外国ぶったおせ」という攘夷論と結びついて「天皇を尊んで、外国をぶったおせ」という尊王攘夷(そんのうじょうい)という考えが世の中に広まった。

尊王攘夷論(そんのうじょういろん)
尊王攘夷論(そんのうじょういろん)

強大な武力を持つ列強による日本の植民地化が危惧されたことを背景として形成された「天皇を尊んで外国を打ち倒そう」という思想。

徳川家茂(とくがわいえもち)
徳川家茂(とくがわいえもち)

1846年 - 1866年

江戸幕府第14代征夷大将軍(在職:1858年 - 1866年)。

1862年に孝明天皇の妹である和宮と結婚したが、それが「幕府が天皇から和宮を人質に取った」というように攘夷派を刺激した。

和宮(かずのみや)
和宮(かずのみや)

1846年 - 1877年

孝明天皇の妹。

1862年に第14代将軍徳川家茂に嫁いだ。

坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)
坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)

1862年

尊王攘夷派の水戸浪士が老中安藤信正を襲撃し、負傷させた事件。

和宮が徳川家茂に嫁いだことが刺激となって起こった事件。

公武合体(こうぶがったい)
公武合体(こうぶがったい)

幕末の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府および諸藩(武)を結び付けて幕藩体制の再編強化を図ろうとした政策論、政治運動。対義語は尊王攘夷。

島津斉彬(しまづなりあきら)
島津斉彬(しまづなりあきら)

1809年 - 1858年

外様大名。薩摩藩第11代藩主。島津氏第28代当主。

薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。1858年8月24日に病死した。暗殺説もある。

集成館(しゅうせいかん)
集成館(しゅうせいかん)

島津斉彬が建設を開始した洋式工場群。

文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)
文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)

1862年

江戸幕府がヨーロッパに派遣した使節団。

福沢諭吉や、福地源一郎も参加した。

1862年のロンドン万博を見学した。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)
福沢諭吉(ふくざわゆきち)

1835年 - 1901年

文久遣欧使節に参加した。

明治時代に慶應義塾を創設したり『学問のすゝめ』書いたりする人。

福地源一郎(ふくちげんいちろう)
福地源一郎(ふくちげんいちろう)

1841年 - 1906年

文久遣欧使節に参加した。

1882年に立憲帝政党を結成する人。

島津久光(しまづひさみつ)
島津久光(しまづひさみつ)

1817年 - 1887年

政治家。幕末の薩摩藩の事実上の最高権力者。ただし、薩摩の藩主ではない

島津斉彬の異母弟。安政の大獄で優秀な人が次々粛清されるわ、しかもそれを行った井伊直弼が暗殺されるわで日本がどうにもならない感じだったから、いっちょ俺が公武合体運動を推進させるかと思って1862年に薩摩から兵を率いて京都に行く。

寺田屋事件(てらだやじけん)
寺田屋事件(てらだやじけん)

1862年

京都の旅館・寺田屋で発生した事件。島津久光は尊王攘夷派に期待されていたが、久光自身は公武合体派であり、1862年4月16日に入京した久光は朝廷より志士始末の命を授かる。京都の志士たちはこの展開に驚愕し、薩摩藩の過激派は久光に無理やりでも蜂起を促すことを画策。志士暴発の噂を聞いた久光は剣術に優れた8人を過激派がいる寺田屋に派遣し、双方が斬りあった。その後「同じ薩摩藩士での同士討ちはやめよう」と説得しあい騒動は収まった。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へ向かった。

三島通庸(みしまみちつね)
三島通庸(みしまみちつね)

1835年 - 1888年

武士(薩摩藩士)。明治時代の内務官僚。

明治時代に活躍する人。寺田屋事件に関与して謹慎を命じられる。

島津久光が文久の改革を行わせる(しまづひさみつがぶんきゅうのかいかくをおこなわせる)
島津久光が文久の改革を行わせる(しまづひさみつがぶんきゅうのかいかくをおこなわせる)

1862年、寺田屋事件の後、朝廷に対する島津久光の働きかけにより5月9日幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、島津久光は勅使とともに兵を引き連れて江戸へ行き文久の改革を行わせた。

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)
文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)

1862年

島津久光の圧力の下、江戸幕府で行われた改革。

内容は以下の通り。

  • 若年の将軍徳川家茂の補佐役として一橋家当主の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)将軍後見職に任命
  • 松平慶永(松平春嶽)を新設の政事総裁職に任命。
  • 京都守護職を新設し、松平容保を任命。
  • 参勤交代の緩和
  • 洋学研究の推進
  • 軍事改革
  • 「服制変革ノ令」の発布
松平容保(まつだいらかたもり)
松平容保(まつだいらかたもり)

1836年 - 1893年

幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主。

1862年に文久の改革により、京都の治安を守る京都守護職に就任した。

松平慶永(まつだいらよしなが)
松平慶永(まつだいらよしなが)

1828年 - 1890年

大名、政治家。第16代越前福井藩主。幕末の四賢侯の一人。

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)とも呼ばれる。

1862年に文久の改革により政事総裁職に就任した。

政事総裁職(せいじそうさいしょく)
政事総裁職(せいじそうさいしょく)

1862年

文久の改革により新たに設置された大老に相当する役職。

松平慶永が任じられた。

一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)

1837年 - 1913年

1862年に文久の改革により将軍後見職に就任。

後の江戸幕府第15代将軍。

生麦事件(なまむぎじけん)
生麦事件(なまむぎじけん)

1862年

島津久光一行が江戸から薩摩への帰国途中、生麦村で遭遇した英国人を、下馬せずに行列を乱したのを無礼として殺傷した事件。

薩英戦争の原因となる。

徳川家茂が上洛し孝明天皇に攘夷を約束する(とくがわいえもちがじょうらくしこうめいてんのうにじょういをやくそくする)
徳川家茂が上洛し孝明天皇に攘夷を約束する(とくがわいえもちがじょうらくしこうめいてんのうにじょういをやくそくする)

1863年

江戸幕府第14代征夷大将軍である徳川家茂が将軍としては229年振りに京都に上洛し、孝明天皇に攘夷を約束した。

また、諸藩に1863年5月10日から攘夷するよう伝えた。

長州藩による外国船砲撃(ちょうしゅうはんによるがいこくせんほうげき)
長州藩による外国船砲撃(ちょうしゅうはんによるがいこくせんほうげき)

幕府が1863年5月10日の攘夷実行を約束したことを受け、長州藩は期日通り5月10日に下関の海峡を通る外国船を砲撃した。

薩英戦争(さつえいせんそう)
薩英戦争(さつえいせんそう)

1863年

7月、生麦事件の解決を目的として艦隊を率いて来たイギリスと、薩摩藩との間で行われた戦争。

両軍とも損害を被り、講話した。

以降、薩摩とイギリスは急速に友好関係を築く。

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)
八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)

1863年

8月18日に発生したクーデタ。

薩摩・会津などの公武合体派が朝廷内の公武合体派と結んで、長州藩を中心とした急進的な尊王攘夷派を京都から追放した。

池田屋事件(いけだやじけん)
池田屋事件(いけだやじけん)

1864年

新選組が京都の池田屋に集合した尊王攘夷派を急襲・殺傷した事件。

禁門の変(きんもんのへん)
禁門の変(きんもんのへん)

1864年

八月十八日の政変で京都を追放されていた長州藩の急進派が池田屋事件を契機に攻めのぼったが、会津・桑名・薩摩の藩兵に敗れ、敗走した事件。

世直し一揆(よなおしいっき)
世直し一揆(よなおしいっき)

幕末期は開国を契機とした社会不安の増大や政治権力の不信を背景に、各地で世直し一揆打ちこわしが頻発した。

四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)
四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)

1864年

8月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国艦隊が下関を砲撃した事件。前年5月10日に長州藩が攘夷の実行として外国船を砲撃したことに対する報復。

長州藩は敗北し、講和した。

第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)
第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)

1864年

江戸幕府が長州藩を征伐するために起こした戦争。

禁門の変での皇居への発砲を理由に幕府が出兵。

四国艦隊下関砲撃事件で打撃を受けていた長州藩が恭順したため、戦わずに撤兵した。

幕末の薩摩藩(ばくまつのさつまはん)
幕末の薩摩藩(ばくまつのさつまはん)

幕末の薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通ら下級武士の発言力が強まった。

幕末の輸出品第一位(ばくまつのゆしゅつひんだいいちい)
幕末の輸出品第一位(ばくまつのゆしゅつひんだいいちい)

幕末の輸出品第一位は生糸。

幕末の輸出品第二位(ばくまつのゆしゅつひんだいにい)
幕末の輸出品第二位(ばくまつのゆしゅつひんだいにい)

幕末の輸出品第二位は茶。

幕末の輸入品第一位(ばくまつのゆにゅうひんだいいちい)
幕末の輸入品第一位(ばくまつのゆにゅうひんだいいちい)

幕末の輸入品第一位は毛織物。

木戸孝允(きどたかよし)
木戸孝允(きどたかよし)

1833年 - 1877年

長州藩士。

幕末期に長州藩の中で実権を握った。

孝明天皇による条約勅許(こうめいてんのうによるじょうやくちょっきょ)
孝明天皇による条約勅許(こうめいてんのうによるじょうやくちょっきょ)

1865年

徳川家茂の請願を受けて、10月5日に孝明天皇がアメリカとの日米修好通商条約ほかイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの通商条約を勅許(天皇による許可をした)。

横須賀製鉄所(よこすかせいてつじょ)
横須賀製鉄所(よこすかせいてつじょ)

1865年

幕府はフランス人技師の指導のもと横須賀製鉄所を設立した。

これは明治政府に引き継がれ、1871年に横須賀造船所と改称した。

薩長同盟(さっちょうどうめい)
薩長同盟(さっちょうどうめい)

1866年

3月に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた同盟。

坂本龍馬(さかもとりょうま)
坂本龍馬(さかもとりょうま)

1836年 - 1867年

土佐藩出身の志士。

中岡慎太郎とともに薩長同盟を仲立ちした。

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

1838年 - 1867年

土佐藩出身の志士。

坂本龍馬とともに薩長同盟を仲立ちした。

改税約書(かいぜいやくしょ)
改税約書(かいぜいやくしょ)

1866年

6月に江戸幕府がイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国と結んだ貿易約書。

四国の圧力により日本は関税を引き下げ、安価な外国製品が日本に流入するようになった。

第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)
第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)

1866年

江戸幕府が長州藩を征伐するために起こした戦争。

長州藩が幕府に対して強硬な態度をとったため7月から戦闘に入ったが幕府は敗退。

以降、幕府の権威は失墜した。

徳川家茂が病死する(とくがわいえもちがびょうしする)
徳川家茂が病死する(とくがわいえもちがびょうしする)

1866年

第二次長州征討の際、徳川家茂は大坂城で病死した。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

1837年 - 1913年

徳川家茂が急死したので徳川家を継ぎ一橋慶喜から徳川慶喜となった。

江戸幕府第15代将軍(在職:1866年 - 1867年)。

明治天皇(めいじてんのう)
明治天皇(めいじてんのう)

1852年 - 1912年

第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。

1867年に大政奉還を行い、同年、王政復古の大号令を出した。

明治時代には大日本帝国憲法を制定し、日清戦争・日露戦争で勝利した。

第2回パリ万博(だいにかいパリばんぱく)
第2回パリ万博(だいにかいパリばんぱく)

1867年

幕府から徳川慶喜の弟・昭武が参加した。随員に、のちに実業界で活躍する渋沢栄一がいた。

渋沢栄一(しぶさわえいいち)
渋沢栄一(しぶさわえいいち)

1840年 - 1931年

明治時代に国立銀行条例制定で中心的な役割を果たした人。

ええじゃないか
ええじゃないか

1867年に伊勢神宮のお札などが空から降ったことを契機に、人々が「ええじゃないか」と歌い踊りながら町や村を巡り歩き狂喜乱舞した民衆運動。

大政奉還(たいせいほうかん)
大政奉還(たいせいほうかん)

1867年

10月に徳川慶喜が幕府にあった政権を朝廷に返上したことを指していう。

今まで「幕府は朝廷に政治を任されている」という形式で幕府が政権を握っていた。

しかし、武力倒幕を決意した薩長両藩を見た坂本龍馬らが、土佐藩前藩主を通じて徳川慶喜に政権の朝廷への返上を勧めた。

それを受け、徳川慶喜は政権を朝廷に返上した。

しかし、慶喜は朝廷政権下で政治の主導権を維持しようとしたため、倒幕派が反発し、王政復古の大号令につながる。

王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)
王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)

1867年

摂政・関白や将軍職を廃止して天皇中心の政府樹立を目指すことを宣言するもの。

12月に倒幕派が朝廷でクーデターを決行して発表した。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
西郷隆盛(さいごうたかもり)

1827年 - 1877年

薩摩藩の人。

王政復古の大号令を発した。

大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

薩摩藩の人。

王政復古の大号令を発した。

岩倉具視(いわくらともみ)
岩倉具視(いわくらともみ)

1825年 - 1883年

公家。

王政復古の大号令を発した。

三職(さんしょく)
三職(さんしょく)

1867年

王政復古の大号令により「総裁」「議定」「参与」の三職が創設された。

議定(ぎじょう)
議定(ぎじょう)

王政復古の大号令によって創設されたの三職の一つ。

辞官納地(じかんのうち)
辞官納地(じかんのうち)

1867年

新政府は徳川慶喜に辞官納地(内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上)を命じる決定をした。

反発した徳川慶喜は京都から大坂城へ引き上げた。

後に、新政府と軍事的に対決することになる。

鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)
鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

1868年

徳川慶喜の辞官納地に反発した幕府の兵が大坂から京都へ入京、薩長の兵と交戦し敗れた戦い。

戊辰戦争の初戦。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)
戊辰戦争(ぼしんせんそう)

1868年 - 1869年

薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした明治新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。明治新政府軍が勝利した。

江戸無血開城(えどむけつかいじょう)
江戸無血開城(えどむけつかいじょう)

1868年

明治新政府側の西郷隆盛と、幕府側の勝海舟の話し合いにより、江戸城を戦場とせず、新政府軍に無血で明け渡された事件。

江戸開城(えどかいじょう)ともいう

会津若松城攻め(あいづわかまつじょうぜめ)
会津若松城攻め(あいづわかまつじょうぜめ)

1868年

戊辰戦争の一局面。

江戸無血開城後の会津藩と新政府軍の戦い。

新政府軍が勝った。

箱館戦争(はこだてせんそう)
箱館戦争(はこだてせんそう)

1868年 - 1869年

戊辰戦争の局面の一つ。新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い。

新政府軍が勝った。

五稜郭(ごりょうかく)
五稜郭(ごりょうかく)

函館郊外に建造された城郭。箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。

榎本武揚(えのもとたけあき)
榎本武揚(えのもとたけあき)

1836年 - 1908年

幕末、明治の幕臣・政治家。

江戸幕府では軍艦頭等を務め、戊辰戦争の一局面である箱館戦争では旧幕府側として五稜郭にこもり、政府軍と交戦したが降伏。

のちに許され新政府では文部大臣、外務大臣等を歴任した。

フランス
フランス

フランスは箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府側を支援した。

が、旧幕府側は敗れた。

大村益次郎(おおむらますじろう)
大村益次郎(おおむらますじろう)

1824年 - 1869年

医師。西洋学者。兵学者。維新の十傑の一人。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。