安土桃山時代【高校:日本史】 1568年 - 1600年
絵の並びは下に行くほど歴史的に新しい出来事です。
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- 安土桃山時代(あづちももやまじだい)
1568年 - 1600年
織田信長が入京してから関ヶ原の戦いまでの時代。
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- 織田信長(おだのぶなが)
1534年 - 1582年
戦国大名。
1568年に足利義昭を将軍にたてて入京を果たした。
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- 足利義昭(あしかがよしあき)
1537年 - 1597年
室町幕府第15代将軍(在職:1568年 - 1573年)。
暗殺された第13代将軍、足利義輝の弟。
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- 関所の撤廃(せきしょのてっぱい)
1568年
織田信長は経済政策の一環として、交通の障害となっていた関所の撤廃を積極的に進めた。
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- 比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)
比叡山延暦寺は関所と金融および荘園から収入を得ていたが、信長の関所撤廃により打撃を受けた。
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- 堺(さかい)
1568年
全国一の経済力を持った自由都市。
信長は堺に高額の矢銭(軍用金)を要求したが、堺はこれを拒否した。
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- 会合衆(かいごうしゅう)
堺の町政を主導した36人の豪商。
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- 今井宗久(いまいそうきゅう)
1520年 - 1593年
茶の湯の三宗匠の一人。
織田信長が堺に高額の矢銭(軍用金)を要求したときに、堺の他の指導者たちを説得し、信長との仲介役となり、後に信長の信頼が厚かった豪商。
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- 織田信長が堺を直轄領とする(おだのぶなががさかいをちょっかつりょうとする)
1569年
織田信長は堺に矢銭(軍用金)の要求を受け入れさせ、さらに堺を直轄領とし、畿内の経済力を自分のもとに集めさせた。
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- 徳川家康(とくがわいえやす)
1543年 - 1616年
戦国大名。
1569年に三河の小山新市に楽市を適用した。
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- 三河の小山新市(みかわのこやましんいち)
徳川家康が楽市を適用した場所。
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- 織田信長と徳川家康は協力関係にある(おだのぶながととくがわいえやすはきょうりょくかんけいにある)
織田信長と徳川家康は協力関係にあった。
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- 姉川の戦い(あねがわのたたかい)
1570年
織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍を破った戦い。
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- 浅井長政(あさいながまさ)
1545年 - 1573年
近江の戦国大名。
姉川の戦いで朝倉義景と連合軍を組み、織田信長・徳川家康の連合軍と戦ったが敗れた。
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- 朝倉義景(あさくらよしかげ)
1533年 - 1573年
越前の戦国大名。
姉川の戦いで浅井長政と連合軍を組み、織田信長・徳川家康の連合軍と戦ったが敗れた。
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- 石山戦争(いしやませんそう)
1570年 - 1580年
織田信長と、顕如率いる摂津国の石山本願寺との間で行われた合戦。
1580年に和睦を締結した。
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- 大坂石山(おおさかいしやま)
顕如率いる浄土真宗本願寺派(一向一揆)は大坂石山を拠点として信長と敵対した。
1580年の講和後に、顕如は大坂石山を退去した。
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- 顕如(けんにょ)
1543年 - 1592年
本願寺11世。
石山戦争で織田信長と対立した。
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- 延暦寺焼打ち(えんりゃくじやきうち)
1571年
姉川の戦いの翌年、織田信長は浅井長政・朝倉義景の連合軍に加担した比叡山延暦寺を焼き打ちにした。
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- 興福寺(こうふくじ)
奈良の寺院。
当時、延暦寺とともに寺社勢力として大きな力を持っていた。
興福寺の僧侶、英俊の日記は信長時代を知る重要な史料。
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- 桃山文化(ももやまぶんか)
安土桃山時代に桃山文化と呼ばれる豪壮・華麗な文化が花開いた。
主に「人形浄瑠璃」「濃絵」「隆達節」「侘茶」などが有名。
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- 小袖(こそで)
戦国・安土桃山時代には小袖が女性の普段着として一般化した。
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- 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)
桃山文化では三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃が始まった。
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- 濃絵(だみえ)
金箔を使った装飾性の強い絵。桃山文化では城郭内部の障壁画などに濃絵の手法が用いられた。
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- 隆達節(りゅうたつぶし)
桃山文化では小歌に節づけをした隆達節が庶民の人気を博した。
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- 侘茶(わびちゃ)
茶の湯の一様式。
桃山文化では豪華さよりも簡素さを尊ぶ侘茶が大成された。
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- 国質(くにじち)
質取りの一形態。
債務者が契約不履行の場合、債権者は債務者と同じ国に住んでいる別人の身柄や動産を質として取り、差し押さえること。
信長はこれを禁じた。
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- 所質(ところじち)
質取りの一形態。
債務者が契約不履行の場合、債権者は債務者と同じ商工業などの組織に所属している別人の動産を質として取り、差し押さえること。
信長はこれを禁じた。
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- 織田信長が足利義昭を京都から追放する(おだのぶなががあしかがよしあきをきょうとからついほうする)
1573年
織田信長は室町幕府第15代将軍の足利義昭を京都から追放した。
これにより実質的に室町幕府は滅んだとされる。ただし、形式的には義昭は1588年まで将軍職であったとされる。
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- 1573年
足利義昭が追放されたのは1573年。
覚え方は「以後(15)並(73)の人になった足利義昭の京都追放」です。
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- 洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)
京都の市内と郊外の様子を描いた屏風絵。
初期の能舞台の様子も描かれている。
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- 柴田勝家(しばたかついえ)
1522年 - 1583年
武将。織田信長の家臣。
織田信長に頼まれ、1575年から北庄を拠点に北陸を経営した。
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- 北庄(きたのしょう)
柴田勝家が北陸経営の拠点とした場所。
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- 武田勝頼(たけだかつより)
1546年 - 1582年
甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。
長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れた。
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- 長篠の戦い(ながしののたたかい)
1575年
三河国長篠城をめぐり、三万八千の織田信長・徳川家康連合軍と、一万五千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。騎馬主体の武田勝頼の軍に対して、織田信長・徳川家康連合軍が銃を巧みに使用して勝利。
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- 織田信長が安土城を築く(おだのぶなががあづちじょうをきずく)
織田信長は、1576年に近江に新たな拠点となる安土城を築いた。
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- 安土城(あづちじょう)
近江国の安土山にあった城。
織田信長によって建造され、大型の天守を初めて持つなど威容を誇った。
現在は石垣などの一部の遺構を残すのみである。
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- 天守閣(てんしゅかく)
城の本丸に置かれた最も高い櫓(やぐら)。
天守とも言う。
安土桃山時代になると、城主の権威を象徴する高層の天守閣を備えた城郭が建設されるようになった。
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- 松永久秀(まつながひさひで)
1510年 - 1577年
織田信長の配下に組み込まれた。
東大寺大仏殿を焼き、最終的に信長に反旗を翻して没した。
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- 信長が安土に楽市・楽座を適用する(のぶなががあづちにらくいち・らくざをてきようする)
1577年
織田信長は経済政策の一環として安土の城下町に楽市・楽座を出して来住した商工業者に自由な営業を認めた。
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- 富田林(とんだばやし)
河内国の富田林は、戦国時代末期に寺内町として都市を形成したことで有名。
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- 寺内町(じないちょう)
浄土真宗の寺院や道場を中心に形成された集落のこと。
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- 北条氏政(ほうじょううじまさ)
1538年 - 1590年
戦国時代の武将。
1578年に武蔵の世田谷新宿に楽市を適用した。
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- 武蔵の世田谷新宿(むさしのせたがやしんじゅく)
北条氏政が楽市を適用した場所。
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- 安土宗論(あづちしゅうろん)
1579年
織田信長の命令により日蓮宗と浄土宗の二つの宗派が宗論(宗教討論)を実施した。
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- 石山本願寺と講和(いしやまほんがんじとこうわ)
1580年
織田信長は石山本願寺と争っていたが、正親町天皇の仲介で講和が成り、顕如は寺を退去した。
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- 正親町天皇(おおぎまちてんのう)
1517年 - 1593年
第106代天皇(在位:1557年 - 1586年)。
織田信長と石山本願寺の争いの講和を仲介した。
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- 誠仁親王(さねひとしんのう)
1552年 - 1586年
正親町天皇の第一皇子。
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- 三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)
1582年
織田信長の任官について「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうちのどれかに任官させることが話し合われた。
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- 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)
三職推任問題における三職のひとつ。
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- 関白(かんぱく)
三職推任問題における三職のひとつ。
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- 太政大臣(だいじょうだいじん)
三職推任問題における三職のひとつ。
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- 織田信長が自害する(おだのぶなががじがいする)
1582年
織田信長は部下の明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
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- 明智光秀(あけちみつひで)
1528年? - 1582年
武将。大名。
織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして織田信長を自害させた。直後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れる。
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- 本能寺の変(ほんのうじのへん)
1582年
京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件。
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- 豊臣秀吉(とよとみひでよし)
1537年 - 1598年
武将。大名。天下人。「羽柴秀吉」とも呼ばれる。
当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に士官し、次第に頭角を現した。織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得た。
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- 月行事(がちぎょうじ)
町内(または商工業の組合)の事務処理当番のこと。
京都などの町では輪番で選ばれた月行事を中心に自治的な運営がされていた。
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- 太閤検地(たいこうけんち)
豊臣秀吉が1582年以来、征服した大名の領地で検地を実施。
全国統一後の1594年に改めて統一した検地法で全国で検地を実施した。
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- 京枡(きょうます)
枡とは物の量をはかる容器のこと。
当時、様々な種類の枡があったが、太閤検地の際、豊臣秀吉は京都付近で使用された京枡を公定の枡として年貢収納の基準とした。
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- 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
1583年
本能寺の変の翌年、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った。
賤ヶ岳の戦いで前田利家は秀吉側についた。
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- 前田利家(まえだとしいえ)
1538年 - 1599年
武将。
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)側についた結果、加増を受け、金沢を拠点とした。
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- スペイン人が平戸に来航(すぺいんじんがひらどにらいこう)
1584年
スペイン人が平戸に来航し、日本との貿易を始めた。
年号の覚え方は「以後は(158)よ(4)ろしく、スペイン人が平戸に来航」です。
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- 豊臣秀吉が大坂城を築造する(とよとみひでよしがおおさかじょうをちくぞうする)
豊臣秀吉は1583年から石山本願寺跡に大坂城の築造を始め、3年かけて完成させた。
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- 大坂城(おおさかじょう)
豊臣秀吉が1583年から三年かけて、かつての一向一揆の本拠地であった石山本願寺跡に築造した城。
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- 豊臣秀吉が関白になる(とよとみひでよしがかんんぱくになる)
1585年
豊臣秀吉は朝廷から関白の職を与えられた。
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- 方広寺(ほうこうじ)
豊臣秀吉が京都東山に大仏とともに創建した寺。
しかし、その後の慶長大地震によって大仏は大破した。
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- 北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)
1587年に豊臣秀吉が京都の北野天満宮で開いた大規模なお茶会のこと。
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- 千利休(せんのりきゅう)
1522年 - 1591年
茶人。三宗匠の一人。
北野大茶湯に参加した。
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- 津田宗及(つだそうぎゅう)
?年 - 1591年
茶人。三宗匠の一人。
北野大茶湯に参加した。
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- 今井宗久が北大茶湯に参加する(いまいそうきゅうがきたのおおちゃのゆにさんかする)
1587年
三宗匠の一人である今井宗久も北野大茶湯に参加した。
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- 刀狩(かたながり)
1588年
豊臣秀吉が刀狩令を出して諸国の農民から武器を没収した。
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- 海賊停止令(かいぞくていしれい)
1588年
豊臣秀吉が出した海賊を禁圧する法令。
海賊取締令・海賊禁止令・海賊鎮圧令ともいう。
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- 伊達氏(だてし)
東北の戦国大名。
1590年に豊臣秀吉に屈した。
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- 小田原攻め(おだわらぜめ)
1590年
豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、全国統一を達成した戦い。
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- 1590年
小田原攻めにより北条氏が滅んだのは1590年。
覚え方は「以後(15)苦(9)無し(0)。北条滅ぼし天下統一」です。
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- 天草版(あまくさばん)
1592年 - 1596年
安土桃山時代にイエズス会が活字印刷術を用いて出版した本を天草版(キリシタン版)という。
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- 納谷助左衛門(なやすけざえもん)
?年 - ?年
貿易商人。
16世紀末にルソン(フィリピン)と往来して活躍。
豊臣秀吉の保護を受けて豪商として成長した。
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- 朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)
豊臣秀吉は日本の統一がひと通り済むと、明の支配を狙い、その侵略途上にある朝鮮に二度に渡り侵攻した。
1592年の出兵を文禄の役、1597年の出兵を慶長の役という。
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- 壬辰・丁酉の倭乱(じんしんていゆうのわらん)
豊臣秀吉の二度の朝鮮侵攻の朝鮮側でのよび方。
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- 文禄の役(ぶんろくのえき)
1592年
豊臣秀吉の一度目の朝鮮出兵。
日本は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を占領した。
朝鮮の抵抗や明の援軍などにより戦局膠着。
碧蹄館の戦いの後、小西行長により和平工作が図られたが、交渉は決裂し、後に二度目の朝鮮出兵が行われた。
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- 李舜臣(りしゅんしん)
1545年 - 1598年
朝鮮の将軍。
亀甲船を考案し、日本側の補給路をかく乱した。
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- 碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)
文禄の役の戦いのひとつ。
日本が勝った。
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- 26聖人殉教(にじゅうろくせいじんじゅんきょう)
1596年
キリスト教の宣教師・信者26名が、長崎で処刑された。
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- 小西行長(こにしゆきなが)
?年 - 1600年
武将。
文禄の役の後、和平工作を図った。
だが、交渉は決裂し、後に二度目の朝鮮出兵が行われた。
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- 慶長の役(けいちょうのえき)
1597年
豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵。
戦線の膠着と豊臣秀吉の死により日本は撤退した。
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- 明が援軍を出す(みんがえんぐんをだす)
日本の朝鮮出兵に対し、明(当時の中国)が朝鮮に援軍を派遣した。
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- 姜沆(きょうこう)
1567年 - 1618年
豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の捕虜として日本へ移送された。
京都五山の僧であった藤原惺窩に朱子学を教えている。
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- 藤原惺窩(ふじわらせいか)
1561年 - 1619年
京都五山の僧。儒学者。京学派の祖。
姜沆に朱子学を教わり、儒学を体系化して京学派として独立させた。
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- 饅頭屋宗二(まんじゅうやそうじ)
1498年 - 1581年
奈良で饅頭屋を営む商人。
16世紀に国語辞書『節用集』を出版した。
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- 五奉行(ごぶぎょう)
1598年頃、豊臣秀吉の死の直前に設置された職。
五大老の下。
浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家ら5名で構成された。
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- 石田三成(いしだみつなり)
1506年 - 1600年
武将。
五奉行のうちの一人となる。
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- 増田長盛(ましたながもり)
1545年 - 1615年
五奉行の一人。
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- 五大老(ごたいろう)
五奉行の顧問役。
最初は六人いたが、一人亡くなり五人になった後、五大老と呼ばれるようになった。
徳川家康は五大老の筆頭。
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- 豊臣秀吉が病死する(とよとみひでよしがびょうしする)
1598年
豊臣秀吉が病死した。
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- リーフデ号
1600年
オランダ船リーフデ号が豊後国(ぶんごのくに)に漂着した。
ウィリアム=アダムズとヤン=ヨーステンが乗っていた。
年号の覚え方は「乗ってた人(1)ろくでなし(60)でも無い(0)、リーフデ号が豊後に漂着」です。
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- ウィリアム=アダムズ
1564年 - 1620年
イギリス人。
1600年にリーフデ号に乗って豊後に漂着した。
徳川家康の外交顧問になる。
平戸のイギリス商館の経営に協力。
後に朱印船貿易に従事した。
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- ヤン=ヨーステン
1556年 - 1623年
オランダの航海士。
1600年にリーフデ号に乗ってウィリアム=アダムズとともに豊後国に漂着。
徳川家康に信任され、その後朱印船貿易家になった。彼の屋敷があった場所は現在の八重洲あたりだが、「八重洲」の地名は彼の名前に由来する。
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- 関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
1600年
徳川家康の東軍が石田三成の西軍を破った戦い。
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- 石田三成が関ヶ原の戦いで敗れる(いしだみつなりがせきがはらのたたかいでやぶれる)
1600年
石田三成は関ヶ原の戦いにおいて敗れ、処刑された。
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- 徳川家康が江戸に幕府を開く(とくがわいえやすがえどにばくふをひらく)
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年、征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。
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- 灰吹法(はいふきほう)
銀の精錬法の一種。
戦国末期から近世にかけて、朝鮮から灰吹法が導入され、産銀高が激増した。
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- たたら製鉄(たたらせいてつ)
製鉄業では、たたら製鉄が中国地方などを中心に発達した。